1024号室

納得のいく首輪を探しています

カメと遭難

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昔、小学校低学年の頃に、亀飼っていたことがある。近所のペットショップの水槽で売られていた、ミドリガメだ。当時の所持金で買えるような値段だったと思う。

 

生まれて初めて扱う命だったし、ゲームや友達との遊びとはまた違う喜びを感じて、毎日毎日、触れ合っていたのを覚えている。

 

ただ、やがて日が経つと、生来のテキトーさ加減や飽きっぽさが顔を出してきて、結局逃してしまうことになったから、苦い思い出ではあるけど、生物というものの様子や、生活に触れることができた、生の経験だったと思っている。

 

さて、僕はこの一連の出来事を通じて、何か、無意識的に、亀に対してある印象を抱いていた。十数年経った今なら、それを言葉にできると踏んで、記事にしてみようと思った。

 

やってみよう。

ウサギと亀

まず、亀は鈍い生き物だ。思い甲羅を持っているが故、敏捷さを失ってしまっている。

 

亀の鈍足を使った寓話もある。ウサギとの徒競走をして、ウサギ圧勝の下馬評を覆して、その勤勉さを武器に勝利を飾る。ノロさによって、ウサギの驕りを煽って、勝利にこぎつける。

 

教訓としては、能力への過信は、結局身を滅ぼすことになりかねませんよ。たとえ、能力が低くても、着実に、歩を進めていけば、いつかは辿り着くことができますよ。というところだろう。なるほど。とても勉強になった。

 

ただ、一つ思うことがある。言うまでもなく、ウサギと亀は、別種の生き物だ。それぞれの戦略に応じて、別個の進化を遂げてきた、全く別の生物だ。棲んでいる場所が違う。向き合うべき脅威も、立ち向かい方も違う。

 

それを、人間の尺度に無理やり引き上げて、比べているようなところがある。それでは、教訓をつかむことができても、本質をつかむことが出来ない。

亀の走法

実は、亀は、この上なく素早い生物だ。

 

亀は、甲羅を持っている。速く走ることが出来ない。亀は、鈍足故に、外敵に、すぐに追いつかれる。その代わり、甲羅の中に、手足頭尻尾を引っ込めて、生存を図る。この動作は、とことん素早い。

 

つまり、亀という生き物は、最小限の動きで、体力もほとんど使わず、敵から逃げおおせることができる。

 

懸命に駆け回って、四方八方逃げまくり、外敵が疲れて諦めるのを待つという、ウサギのような、愚鈍なことはしない。

 

生存の最短ルートを、最速で駆け抜けるのが、亀という生物だ。ただ、甲羅の中に、引き篭もるだけでいい。

 

そう、亀は、生存レースにはそもそも負けることがない。レースをとことんまで短くして、ゴール前に常に陣取り、いつでも、どこでも、ゴールテープを切れるのが、亀だ。

 

亀は素早い。目指すべきゴールを所有しているから。

甲羅=安全?現在地=目的地?

つまり、亀の素早さというのは、危険地帯と安全地帯の往復スピードが速いということだ。危険への深い理解が甲羅を使った。逃げ切れないのなら、居直ってやる。甲羅の中に。俺は、シェルターを保有しているんだ。

 

危険への理解と、進歩への鈍さというのは、間接的であるにしろ、繋がっているらしい。

 

人間の、危険への敏感さは、ちょっと眼を見張るものがある。危険を克服するために、たくさんのものを取り揃えてきた。

 

病に対する医療、不平に対する宗教、飢餓に対する農業、存在に対する文化、凝固に対する芸術。

 

長い時間をかけて、人間は、自分自身を、たくさんの人工物(甲羅)で取り囲んできた。本当に安全になった。安全保障という意味では、ある臨界点に達しているような気さえする。

 

ただ、重苦しくなった。鈍くなった。彼方を見ても、此方を見ても、甲羅の中から這い出た、門前払いの手が見える。

 

僕は、生まれながらにして、全てを享受してきた。求めずとも、与えられてきた。作らずとも、全てはそこにあった。生まれた時から、全ては完成していた。

 

空の財布の所有者なら、それを金で満たす欲求が生まれる。生まれた時から、何から何まで取り揃っていた、もしくは、そう思い込まされる時代に生まれたのなら、何を欲しがる理由もなくなる。どこにも行かなくていい。なにも、作らないでいい。現在地の目的地化。甲羅の作用だ。

 

僕の印象で言えば、若者の、政治への無関心への理解の糸口も、そこにある。

 

この、なんとも言えない息苦しさ、閉塞感が、安全の代償だとして、全ての行動を、安全への逃避と解釈してみるなら、亀が甲羅の中に手足を引っ込める時のような、自動化、効率化は、やっぱり疑ってみるべきだ。

 

軽やかに進むことが、むしろ立ち止まっていることを証明しているかもしれないんだ。

 

一生が、ただ長い1日で、僕は、1日たりとも、明日を迎えられないかもしれないんだ。

 

生きていることが、死んでいることかもしれないんだ。

 

このブログを始めたのも、現在地を失うための、一歩目なのかもしれない。

 

知っている道は、知っている場所にしか、僕を連れて行きはしない。

ほころびの時代

あれには、収集が付いている。これにも、決着がついている。

 

冒険の難しい時代に生まれた。オリジナルになりにくい時を生きている。その上、ここには居たくない。それなのに、荷造りをしている暇もない。

 

甲羅を背負ってしまった人間として、この、遅々とした歩みは、仕方がないのかも知れない。

 

ただ、少なくとも、甲羅の中に、目指すべき場所はない。        2019.08.04