1024号室

納得のいく首輪を探しています

核のスイッチと人差し指

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1945年、8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、原子爆弾が落とされた。人々の生活の中に突如として現れた閃光と灼熱。約、二十数万人が亡くなったという。こうして、僕が簡単に書く「原子爆弾が落とされた」という一文の中に、どれ程の悲しみと苦しみがあったんだろう。僕にはわからない。

 

 

 

いつだったか、核実験の映像を見たことがある。一瞬で吹き飛ぶ家屋、爆炎、キノコ雲、開発者たちの拍手、そのどれもが空恐ろしく僕には見えた。

 

 

 

僕は、ここでこういうものを書いている。小さいなりに、ささやかなりに、色々なものをゆっくりと積み上げて、自分の命を生きている。きっと、被爆者の方達もそうだったろう。少しずつ、少しずつ、沢山の喜びと挫折を繰り返しながら自分の体温を保っていたんだろう。

 

その、彼らの守ってきた36.5℃と、あの一瞬の4000℃とが、僕の中でどうしても噛み合わない。嘘なんじゃないか。本当にこんなことが起きたのか。信じられない。でも、どうやらそれは史実らしい。うやむやにされた彼らの声と、爆音とが、なんの調和もないままに、一瞬で消えた。

 

 

 

日本は、唯一の被爆国だ。僕はそこに育ってきた人間として、この核爆弾というもの、そして、その実行の契機になったとされる、核のスイッチというものについて考えてみたい。

核のスイッチ

スイッチというものがある。エレベーターのスイッチ、電球のスイッチ、そして、核のスイッチ。スイッチを押せば、内部のシステムが駆動して、カゴが昇降する。電球に明かりが灯る。現代に生活していれば、一日に一回は必ず触れるものだ。科学というものと、切り離せないものだ。

 

 

 

このスイッチという装置は、とても象徴的に、時代を物語っている。

 

 

 

人間は、文明を、科学を、ゆっくりと発展させてきた。農業、医療、科学、化学。それらの発展ということを、一言で言い表すとしたら、より少ない労力で、より多い成果をもたらす、ということになる。より効率的に大地から栄養を吸い上げる技術、これによって、飢餓は遠のいた。メス、これによって、より的確に、より少ない腕力で、患部の切開ができる。

 

僕は、道具というものが好きだ。ハンマー、判子、現金、こういったものに、なぜか惹かれる。そして、それがなぜなのか、ずっと考えてきた。一体、道具、装置というものの何が、僕の興味をそそるのか。今回このスイッチというものを考えてみたときに、その正体がわかった。

 

 

 

それは、前述の通り、道具とは、より少ない行為で、より多い成果を、人間にもたらす為のものだからだ。そして、スイッチというものは、そのなかでも、一際道具的な能力を持っている。

 

 

 

そのことについて、僕はスイッチを時代の象徴だと言うし、より少ない労力で、より多い成果を、という目的に沿って考えれば、核のスイッチというのは、その、究極形になる。

 

 

 

核のスイッチというものが、実際に存在するのかどうかは分からない。ただ、僕の考えを投影するのに十分なモチーフになりうるから、ここでは存在すると置いておく。

 

 

 

この、核のスイッチは、ただ押し込むことによって、夥しい数の人間を殺傷することができる。その政治的威力たるや、凄まじいものがある。だから、為政者たちは、こぞってこれを求める。

 

 

 

かつて、この国で原子爆弾が落とされた。ここで、彼ら、スイッチの裁量権を持つ人間がとる行為は、ただ、スイッチを押すということだけだ。行為という観点のみに限って言えば、人差し指を、少し動かしただけだ。それで、二十数万人が亡くなった。今の科学技術なら、もっと沢山のひとがなくなるだろう。

 

 

 

ここで見えてくるのは、行為と成果、そして、原因と結果の乖離だ。

 

 

 

何十万人もの人を絶命させ、生活を破壊し、元には戻せない結果をもたらしたのは、人差し指を、数センチ動かしたということだけだ。これが、スイッチだ。

利き手の人差し指

本来なら、指を数センチ動かすことによって引き起こせる結果なんて、ほんの僅かなことだ。多数の人の命を奪うどころか、一人の人間を振り返らせるくらいがやっとのところだ。

 

 

 

一人の人間が何十万の人間を殺傷するのは、このスイッチや、核が無ければ、一生を費やしても無理だろう。科学技術と大量の良心の委託が無ければ不可能なことだ。それを、スイッチが、核が、可能にした。

 

 

 

今の世では、行為というものと、結果というものが、繋がりが見えないほど離れてしまう場合があるということ。ほんの少しの行為が、恐るべき結果に繋がってしまいうるということ。

 

 

 

この傾向がそのまま進んでいくなら、いつの日か、ある一人の少年のクシャミで、世界が滅んでしまうということになりかねないんじゃないか。

 

 

 

現在、世の中はその方角へと、どんどんと進んでいる。より少ない行為でより多い成果をもたらすこと。

 

 

 

車だってそうだ。道を進もうとアクセルを踏み込む。たった一歩踏み込む。それだけで、百万歩の道のりを移動できる。おそらく、前の記事で書いた不適切動画もそう。行為と結果の乖離がもたらした現象だ。

 

 

 

ふと、自分の利き手の掌を見る。この小さな手が掴めるものは、もう、ペンだけじゃない。いつの日か、太陽を掴み、星を蹴散らせる日が来る。

 

 

 

あらゆるものを乗せうる、この人差し指を見る。都市が、人の命が、銀河系が乗るであろうこの人差し指を見る。

 

 

 

科学は、行為というものを肥大化させて、この人差し指の意味も変えた。人類の体格は、もう、地球に収まりきらなくなって、宇宙の果てまで到達して、全てを手に入れた時に、人類はどうなるんだろうか。そこに、立ち止まるんだろうか。宇宙に、引きこもることになるんだろうか。外は、いつまでもあるんだろうか。

知性と36.5℃

行為によって起こる結果には、二つの種類がある。意図された結果と、意図されなかった結果だ。ある結果を引き起こそうとして、行為をする。望んだ結果が得られた裏で、目的になかったことも起こる。

 

 

 

おそらく、当時のアメリカ首脳部が原子爆弾投下に見込んでいた結果は、戦争の終結だ。公にも、そう語っているはず。もしかしたら、人間を用いた、兵器の威力の臨床実験という側面もあるのかもしれないけど、ともかく、求めたのは、被爆者の苦痛でなかった筈だ。別に、そんなものを目的にしてはいなかった筈だ。

 

 

 

でも、実際には、それは起こった。多くの人に、恐るべき苦しみと悲しみを、永久に残すことになった。これは、想定されていなかったろう。本当に、それだけの苦痛というものを核に認めていたとしたら、あんなものを人の住む場所に落とすことなんて出来なかったろう。頭の隅にあったとしても、まあ、どうにかなるだろうと踏んでいたのだろう。でも、どうにかならなかった。

 

 

 

「スイッチ」の絡んだ行為には、大いなる意図されなかった結果がもたらされた。

 

 

 

行為には、往々にして、意図されなかった結果がついてくる。目的になかった何かが起こる。それは、悲劇であり、本来なら、喜びのはずだった。

 

 

 

さて、この「スイッチ」というものが行為を肥大させていくなら、どんな時代になっていくのだろう。行為と成果が乖離していくなら、何が必要になるだろう。

 

 

 

僕は、知性だろうと思う。何が起こるか、これはなんなのか、それを見極めていく、知性というもの。知性は元々、行為のためにあるのだから。これからは、知性の時代になっていけばいいなと思う。

 

 

 

「スイッチ」も、科学も、なくなりはしない。僕は、これらを憎んではいない。

 

 

 

それでもなお、原子爆弾のようなものは認められない。あんなものは何も生まない、何も育てない。

 

 

 

僕がこうやってペンを握り、一人悶々と道を切り開こうとしていることに比べ、あの爆弾はどんなに強靭で、一掃の力を持っているか。あの4000℃にしてみれば、自分の非力さは、もはや無いようなものだ。

 

 

 

それでも僕はこうやって考えて、書いていく。それこそが人間の力だし、ああいった冷酷なものに対処しうる唯一の武器だ。

 

 

 

僕の力は弱い。だとしても僕は、この36.5℃の指先にとどまり続ける。

 

 

 

この36.5℃の意志だけが、あの4000℃の炎を凍りつかせると、信じている。