1024号室

納得のいく首輪を探しています

エイリアンの魅力

エイリアンって、本当に魅力的だ。もちろん、シガニーウィーバー演ずるリプリーと、H.R.ギーガーデザインのエイリアンが格闘する、あのエイリアンだ。

 

映画自体はもちろん名作で、沢山の評論、解釈がある。とても興味深い。でも、僕にとっての、この映画エイリアンの最大の魅力は、なんといってもエイリアンの造形美だ。

 

まず、あの表皮。金属的で、無毛の、どちらかといえば水棲生物のような体表。何かよくわからない粘液に纏われて、怪しく光る。気味が悪い。目が離せない。また、機能としてはわからないけど、コミュニケーションとしての目玉は、おそらく存在してない。そしてやたら美しい、ミスユニバースのような歯並び。真っ白。開いた口から飛び出してくるミニエイリアン。舌なの?何?

 

そして、全体的に人間に似通った容姿。とても素晴らしい。人のような、でも、人ではない姿。人型クリーチャーの魅力だ。僕は個人的に、人型クリーチャーをこよなく愛している。様々なゲーム、映画、絵画で描かれてきた、人の容姿をしたクリーチャー。似て異なる亜人の魅力。ミノタウルス、貞子(?)、エイリアン。

 

今回はその、亜人、異人の魅力というものを、ギーガーの作った、あの美しいエイリアンに基づいて、書いてみたい。

人型クリーチャー

導入でも書いたけど、人型クリーチャーの魅力というのは、とりもなおさず、人に似ているということ。人のような容姿をしながら、実態は全く人と異なる。人のようで、人でない。顔、手足、腹、背、腰、ともかく人間的。形や色は違えど、類型的には、人体にとても近い。にも関わらず、気味が悪い。怖い。一体なぜ、人間に似ているということが、親近感ではなく、むしろ異物感を催すのか。

 

なぜ、近いということが、こんなにも心のザワつきを生むのか。普通に考えれば、遠くかけ離れていた(明確に異質なものの)方が、気味が悪いはず。でも、実際には、人間的なものの方が、気味が悪い。虫が、動物が、人間的振る舞いをしているのは、どこか気味が悪い。

 

この、気味が悪いという感覚の裏には、僕たち人間の、やや複雑な生理が関係しているらしい。

 

まず、遠いということは、異質だということは、どういうことを表すか。

 

僕の家から、富士山は見えない。あまりにも距離があって、肉眼では確認することができない。ただ、遠いということを知っている。それにひきかえ、うちの窓から見える山は、肉眼で捉えられるほど近い。これは、どちらが遠いのか。

 

僕は、今この目で見ている山の方が遠いと思う。富士山は遠い。確かにそうだ。でもそれは、頭の中で理解していることだ。実際の距離は遠いけど、それは理屈で認識している距離だ。ただ、今見ている山は、実際の自分の感覚に頼って、遠い。目で見える。距離を、体で感じる。実際の距離がどうであれ、現実に僕にとっての遠い山は、この家から見える山だ。

 

 

 

つまり、遠いということは、視界に捉えているギリギリの距離にあるものが一番遠い、ということが言えると思う。

 

あまりに遠いと、遠いということさえわからない。目で見えるほどに近い。だからこそ、最も遠い。

 

これを、エイリアンはじめ、人型クリーチャーに当てはめてみると、彼らは人型の容姿を借りたことで、僕たちの視界に入ってきた。そして、ああ、遠いのだ。ということが分かったということになる。彼らは、人間に向かって近づいてきたが故に、あれほどまで遠のいていった。

 

遠いということが認識できる距離にまで、近づいてきた。つまり、人型クリーチャーに対する、このモヤモヤとしたなんとも言い難い感情には、同質範囲内の異質、異質領域にあるものへの共感、というものが作用していると思う。エイリアンがあれほどまでに気味が悪く、かつ魅力的なのは、僕たち人間とは、決して分かり合えないほど近いからだ。触れ合いそうなほど遠いからだ。

密室の異邦人

パニック映画、ホラー映画の設定において、非常に重要なものの一つとして、決して逃れられない、というものがある。霊体に付きまとわれたり、眠るたびに夢に出てきたり、アマゾンの秘境だったり、容易に抜け出すことが出来ないということが、こういった恐怖や混乱を煽るタイプの映画の成立の、必要条件になっている。

 

絶望や恐怖、焦りなんかが持続されるには、子供の見る悪夢のような、密閉性が必要になる。

 

エイリアンなら、キャッチコピーにある通り、「あなたの声は、誰にも届かない。」宇宙空間を漂う宇宙船が、その密閉性を作り出している。決して逃げられず、否応無くクリーチャーと対峙することになる。そういう意味において、宇宙船というのは、とても優れた設定だと思う。これ以上の密室はない。その中で、エイリアン(異邦人)は躍動する。その運動能力を、恐ろしさを、存分に発揮する。

 

追われる恐怖ではなく、追い詰められる恐怖。

 

密室ということで言えば、このエイリアンシリーズのテーマは、禁忌への挑戦だ。人工生命、生贄、不老不死、生物兵器。人類の科学力の発達が、人間を、より難しい不可能へと向かわせる。その全能の手でパンドラの箱を開けようとして、宇宙船自体が、災いの箱の一つになってしまう。

 

閉じられた空間(逃げるという選択肢が奪われた状態)で、人間が取りうる行動は何か。狂う、戦う、諦める。つまり、順応か、克服か、拒否か。うん、狂う=順応だ。

 

その中で大概の主人公が、戦うことを選ぶ。勇気、知恵、人間的なものを見せてくれる。この言葉はあんまり好きじゃないけど、ホラーやパニック映画でさえ、精神活動のメタファーになっている。

CG

今回の記事を書くにあたって、殆どのエイリアンシリーズを見てみたけど、やっぱり1.2あたりのCGは、今の目からみると結構チャチだ笑

 

もちろん、当時からしてみるとこれは素晴らしい技術水準で、観客もこぞってスクリーンに釘付けになっていたんだろうな。でも、ただ目が肥えているからというだけの理由で、このCGが、僕に感動をもたらさないわけじゃないと思う。僕はもう、どんな素晴らしいハイクオリティの映像にも、感動ができないと思う。

 

 

 

この当時のCGというのは、箱の中の画面に、たかがスクリーンに、これだけ現実に近いものが映し出されているという時点で、すでに素晴らしかったんだろう。

 

今の恐るべき現実コピーでは得られない感動だったろう。あまりに現実に近づきすぎて、差異に目がいってしまう。技術の発達によって、どれだけ近いかじゃなく、どれだけ遠いになってしまっているとおもう。

 

ものごとは、完璧に近づくにつれて、粗探しになる。

 

と、ここでまとめたいと思ったんですが、よく見直してみると、エイリアン自体の魅力は、あまり書けてない…。

 

ただ、この記事を作成してみて、金属的な肌、密室の異邦人、見られない目玉、いくつか面白そうな種子を手に入れたので、それはそれで改めて、エイリアンの魅力の補完記事として、書いてみたいと思います。

 

閲覧、ありがとうございました。                 2019.07.23