1024号室

納得のいく首輪を探しています

マーターズのグロさ

この記事では、閲覧注意、鬱映画、見るべきではない作品などの悪名高い、マーターズについて書いています。

 

あらすじや、視聴した人間誰もが口をそろえて言う、「グロい」という感情が一体どこから来るのか。では苦痛とは?絶望とは?そんなところを、ネタバレありで、作品解説をまじえながら考察しています。

f:id:rennT:20210920114023j:plain

出典:映画.com

 

核のスイッチと人差し指

f:id:rennT:20210926124030j:plain

1945年、8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、原子爆弾が落とされた。人々の生活の中に突如として現れた閃光と灼熱。約、二十数万人が亡くなったという。こうして、僕が簡単に書く「原子爆弾が落とされた」という一文の中に、どれ程の悲しみと苦しみがあったんだろう。僕にはわからない。

 

 

 

いつだったか、核実験の映像を見たことがある。一瞬で吹き飛ぶ家屋、爆炎、キノコ雲、開発者たちの拍手、そのどれもが空恐ろしく僕には見えた。

 

 

 

僕は、ここでこういうものを書いている。小さいなりに、ささやかなりに、色々なものをゆっくりと積み上げて、自分の命を生きている。きっと、被爆者の方達もそうだったろう。少しずつ、少しずつ、沢山の喜びと挫折を繰り返しながら自分の体温を保っていたんだろう。

 

その、彼らの守ってきた36.5℃と、あの一瞬の4000℃とが、僕の中でどうしても噛み合わない。嘘なんじゃないか。本当にこんなことが起きたのか。信じられない。でも、どうやらそれは史実らしい。うやむやにされた彼らの声と、爆音とが、なんの調和もないままに、一瞬で消えた。

 

 

 

日本は、唯一の被爆国だ。僕はそこに育ってきた人間として、この核爆弾というもの、そして、その実行の契機になったとされる、核のスイッチというものについて考えてみたい。

核のスイッチ

スイッチというものがある。エレベーターのスイッチ、電球のスイッチ、そして、核のスイッチ。スイッチを押せば、内部のシステムが駆動して、カゴが昇降する。電球に明かりが灯る。現代に生活していれば、一日に一回は必ず触れるものだ。科学というものと、切り離せないものだ。

 

 

 

このスイッチという装置は、とても象徴的に、時代を物語っている。

 

 

 

人間は、文明を、科学を、ゆっくりと発展させてきた。農業、医療、科学、化学。それらの発展ということを、一言で言い表すとしたら、より少ない労力で、より多い成果をもたらす、ということになる。より効率的に大地から栄養を吸い上げる技術、これによって、飢餓は遠のいた。メス、これによって、より的確に、より少ない腕力で、患部の切開ができる。

 

僕は、道具というものが好きだ。ハンマー、判子、現金、こういったものに、なぜか惹かれる。そして、それがなぜなのか、ずっと考えてきた。一体、道具、装置というものの何が、僕の興味をそそるのか。今回このスイッチというものを考えてみたときに、その正体がわかった。

 

 

 

それは、前述の通り、道具とは、より少ない行為で、より多い成果を、人間にもたらす為のものだからだ。そして、スイッチというものは、そのなかでも、一際道具的な能力を持っている。

 

 

 

そのことについて、僕はスイッチを時代の象徴だと言うし、より少ない労力で、より多い成果を、という目的に沿って考えれば、核のスイッチというのは、その、究極形になる。

 

 

 

核のスイッチというものが、実際に存在するのかどうかは分からない。ただ、僕の考えを投影するのに十分なモチーフになりうるから、ここでは存在すると置いておく。

 

 

 

この、核のスイッチは、ただ押し込むことによって、夥しい数の人間を殺傷することができる。その政治的威力たるや、凄まじいものがある。だから、為政者たちは、こぞってこれを求める。

 

 

 

かつて、この国で原子爆弾が落とされた。ここで、彼ら、スイッチの裁量権を持つ人間がとる行為は、ただ、スイッチを押すということだけだ。行為という観点のみに限って言えば、人差し指を、少し動かしただけだ。それで、二十数万人が亡くなった。今の科学技術なら、もっと沢山のひとがなくなるだろう。

 

 

 

ここで見えてくるのは、行為と成果、そして、原因と結果の乖離だ。

 

 

 

何十万人もの人を絶命させ、生活を破壊し、元には戻せない結果をもたらしたのは、人差し指を、数センチ動かしたということだけだ。これが、スイッチだ。

利き手の人差し指

本来なら、指を数センチ動かすことによって引き起こせる結果なんて、ほんの僅かなことだ。多数の人の命を奪うどころか、一人の人間を振り返らせるくらいがやっとのところだ。

 

 

 

一人の人間が何十万の人間を殺傷するのは、このスイッチや、核が無ければ、一生を費やしても無理だろう。科学技術と大量の良心の委託が無ければ不可能なことだ。それを、スイッチが、核が、可能にした。

 

 

 

今の世では、行為というものと、結果というものが、繋がりが見えないほど離れてしまう場合があるということ。ほんの少しの行為が、恐るべき結果に繋がってしまいうるということ。

 

 

 

この傾向がそのまま進んでいくなら、いつの日か、ある一人の少年のクシャミで、世界が滅んでしまうということになりかねないんじゃないか。

 

 

 

現在、世の中はその方角へと、どんどんと進んでいる。より少ない行為でより多い成果をもたらすこと。

 

 

 

車だってそうだ。道を進もうとアクセルを踏み込む。たった一歩踏み込む。それだけで、百万歩の道のりを移動できる。おそらく、前の記事で書いた不適切動画もそう。行為と結果の乖離がもたらした現象だ。

 

 

 

ふと、自分の利き手の掌を見る。この小さな手が掴めるものは、もう、ペンだけじゃない。いつの日か、太陽を掴み、星を蹴散らせる日が来る。

 

 

 

あらゆるものを乗せうる、この人差し指を見る。都市が、人の命が、銀河系が乗るであろうこの人差し指を見る。

 

 

 

科学は、行為というものを肥大化させて、この人差し指の意味も変えた。人類の体格は、もう、地球に収まりきらなくなって、宇宙の果てまで到達して、全てを手に入れた時に、人類はどうなるんだろうか。そこに、立ち止まるんだろうか。宇宙に、引きこもることになるんだろうか。外は、いつまでもあるんだろうか。

知性と36.5℃

行為によって起こる結果には、二つの種類がある。意図された結果と、意図されなかった結果だ。ある結果を引き起こそうとして、行為をする。望んだ結果が得られた裏で、目的になかったことも起こる。

 

 

 

おそらく、当時のアメリカ首脳部が原子爆弾投下に見込んでいた結果は、戦争の終結だ。公にも、そう語っているはず。もしかしたら、人間を用いた、兵器の威力の臨床実験という側面もあるのかもしれないけど、ともかく、求めたのは、被爆者の苦痛でなかった筈だ。別に、そんなものを目的にしてはいなかった筈だ。

 

 

 

でも、実際には、それは起こった。多くの人に、恐るべき苦しみと悲しみを、永久に残すことになった。これは、想定されていなかったろう。本当に、それだけの苦痛というものを核に認めていたとしたら、あんなものを人の住む場所に落とすことなんて出来なかったろう。頭の隅にあったとしても、まあ、どうにかなるだろうと踏んでいたのだろう。でも、どうにかならなかった。

 

 

 

「スイッチ」の絡んだ行為には、大いなる意図されなかった結果がもたらされた。

 

 

 

行為には、往々にして、意図されなかった結果がついてくる。目的になかった何かが起こる。それは、悲劇であり、本来なら、喜びのはずだった。

 

 

 

さて、この「スイッチ」というものが行為を肥大させていくなら、どんな時代になっていくのだろう。行為と成果が乖離していくなら、何が必要になるだろう。

 

 

 

僕は、知性だろうと思う。何が起こるか、これはなんなのか、それを見極めていく、知性というもの。知性は元々、行為のためにあるのだから。これからは、知性の時代になっていけばいいなと思う。

 

 

 

「スイッチ」も、科学も、なくなりはしない。僕は、これらを憎んではいない。

 

 

 

それでもなお、原子爆弾のようなものは認められない。あんなものは何も生まない、何も育てない。

 

 

 

僕がこうやってペンを握り、一人悶々と道を切り開こうとしていることに比べ、あの爆弾はどんなに強靭で、一掃の力を持っているか。あの4000℃にしてみれば、自分の非力さは、もはや無いようなものだ。

 

 

 

それでも僕はこうやって考えて、書いていく。それこそが人間の力だし、ああいった冷酷なものに対処しうる唯一の武器だ。

 

 

 

僕の力は弱い。だとしても僕は、この36.5℃の指先にとどまり続ける。

 

 

 

この36.5℃の意志だけが、あの4000℃の炎を凍りつかせると、信じている。

                                  

Vフォーベンデッタpart3

道を選ぶとは、なんだろう。自由とは何だろう。そんなことをよく考えるし、この映画はまさに、そんな思いを強くさせる。

 

 

 

僕の人生には、多くの障害があった。殆どの時間、そこに呆然としていただけのような気もする。邪魔をされたし、多くのことを、諦めさせられた。

 

 

 

ただ、障害というものは、僕の歩みを阻んだだけじゃなかった。

 

 

 

障害は、僕にとってのガイドにもなった。障害がなければ、僕は、ただ、人生のだだっ広い野原に、立ち尽くしていたろう。障害があったからこそ、その向こう側に道を見出した。障害に問われ、障害に導かれ、ここまで歩んできた。障害は、何をどうやっても動かせない門だった。それと取り組むことが、僕にとって、進むということだった。

 

 

 

障害が、僕の人生に、意味と道をもたらした。

 

 

 

この世には、素晴らしい人間がいる。彼らはなぜか、苦しみを背負っていた。なぜ、そんな宿命を背負いながら、そんな素晴らしい功績を、人間性を、獲得できたか。なぜなのか、ずっと不思議だった。自分もそうなれたなら、と、ずっと思ってきた。

 

 

 

ハンデを背負いながら、障害に阻まれながら、どうして自分の道を、突き進めたのか。そこには、僕には想像もつかない意思だとか、根性だとか、僕には到底知る由もない何かがあるんだろうと思っていた。

 

 

 

 

 

でも、本当は違う。彼らは、重い宿命を背負わされたからこそ、羽ばたいたんだ。縛り付けられたからこそ、あんなにも高くまで、飛び上がったんだ。

 

 

 

Vは、政府によって、化学実験の被験者にされた。挙句、全てを奪われた。仮面を被らなければ、人前に姿を現せなくもなった。そんな不幸がなければ、彼はVにはならなかったろう。普通に生きて、平凡に死んだろう。

 

 

 

流石に、そんな平均的で、平凡な人生を侮るような青さは僕にはない。それでもやっぱり、彼は、苦痛から、抑圧から生まれたのだし、だからこそ、それは面白い。

 

 

 

 

 

檻は脱走者を生み、耐えられない想いは詩を生んだ。科学がどう解釈しているかは分からないけど、爆発の本質は、抑圧の方にある。ギュッとやるから、バーンとなるんだ。

 

 

 

国に捨てられ、世間に無視され、それでも闇に逃げ込まずに生きていこうとする人間が、愛というものに目覚める以外、一体どんなやり方があったろう。他に、どうしようもなかった。手は尽くした。それでも、これ以外にやりようがなかった。これは本当に、不自由と言えるだろうか。

 

 

 

他のすべての扉が閉じた。さあ、目の前の扉を開けよう。これは、僕は、自由だと思う。

 

 

 

不自由の仮面を被った、自由だと思う。

 

 

 

Vの、いや、彼だけじゃない。自分の道を、力強く生きていこうとする全ての人々。彼らが滾(たぎ)らせた、高温の情熱が溶かした僕の氷床は、高密度の意思が貫いた僕の柔い幻想は、それは大切な、かけがえのない遺物として、僕の心の隅に転がっている。

 

 

 

男には、あんな立ち方があるんだ。

 

 

 

何がVを作ったのか。そんなことを考えていると、ふと、彼のことを思い出す。

 

 

 

将来って何だ。どうやって人間は道を選ぶのか。そうやって考えていると、彼を思い出す。

 

 

 

彼というのは、十代の頃に失った、僕の友人のことだ。

 

 

 

不意打ちのように、暖かい冬の日だった。不意打ちのように、彼の訃報を聞いた。僕は、何が起きたか分からなかった。全く実感が湧かなかったし、何の整理もつかなかった。でも、周りのみんなは、彼は亡くなったというし、彼からも、何の連絡も来ない。彼は亡くなった。理屈ではわかった。ような気がした。

 

 

 

彼とはよく、一緒に登校をした。よく話をした。将来どうなりたいのか。彼からよく聞かれた。彼は、饒舌に語った。作家になりたい。高給取りになりたい。将棋指しになりたい、そんなことも言ってた気がする。遠い思い出の中で、彼の声がする。

 

 

 

 

 

僕は、何も答えられなかった。「将来」という地点まで、生き延びているか分からなかったし、その頃から、精神病に陥って、苦しんでいた。それどころじゃなかった。何も、自分のことを知らなかった。

 

 

 

彼には、たくさんの夢があった。ああなりたい。こうなりたい。

 

 

 

そして、彼はいなくなった。彼は、自ら命を絶った。理由はわからない。方法もわからない。僕は、彼の最後について、何も知らない。分かっていることは、彼はもういないということだけだ。

 

 

 

彼は、火葬された。煙になって、骨になった。粒々になって、いろんな場所に行った。

 

 

 

土になった。海になった。春風になった。

 

 

 

彼の望んだ通り、彼は、あらゆるものになった。

 

 

 

ただ、ついに、彼は、彼だけにはなることができなかった。

 

 

 

僕は、今まで、教師に、周りの大人に、彼に、何度も将来の夢を聞かれた。「お前はどうなりたいんだ?」

 

 

 

その場しのぎの答えなら、たくさん出した。でも、本心から、そのことを考えたことはなかった。

 

 

 

ずっと、答えてみたかった。

 

 

 

色んなことがあった。色んなことを考えた。今なら、こう答えてみたい。かつての教師にも、僕を知る人たちにも、居なくなった彼にも。やっと言えるようになった。

 

 

 

僕は、自分になりたい。                                                                                   2019.09.19

Vフォーベンデッタpart2

登場人物たちは迷う。主人公も、Vも、刑事も。権力者以外は、常に迷いのうちにある。権力者たちに方向転換はない。サトラー議長、クリーディ、こうだと決めたら、最後まで突き進む。変わらないこと、妥協しないことだけが強さだと信じている。自分を疑うという強さを持っていない。弱いものは、指摘に耐えられない。弱いものは、転換に耐えられない。変わらない何か、不変の己という幻想に、肩入れしてしまっている。

 

 

主人公は、Vを裏切る。信頼しようとしながら、何度も迷い、それでも国家の方を、過去の生活の方を信頼しようとする。自分を救ったテロリストと、家族を奪った国家の間で揺らぐ。

 

 

 

 

主人公の弟は、国家による陰謀で命を落としていた。国は、人体実験により完成した生物兵器を、テロリズムに見せかけ、小学校、水道場にばら撒く。そこを、現政権が特効薬を開発し、国を救ったように見せかけた。わかりやすいマッチポンプだ。両親はそれを機に活動家へと変わった。そして、両親ともに、彼女の前から姿を消す。家族を奪われた悲しみとともに、国を疑うという姿勢を封じ込めてしまっていた。

 

 

国は絶対善であり、何かを破壊するものは、反逆するものは絶対悪であるという決めつけによって、翻弄される。彼女を苦しめたのは、彼女だった。彼女を引き回したのは、彼女自身だった。目の前の、胡散臭い仮面を被った男を信用できなかった。ただ、彼女は知っていた。国家もまた、仮面を被っていること。そして、仮面の下の冷酷な顔を、その目で見たことがあったこと。迫り来る二つの仮面の間に、彼女は立ち尽くす。

 

 

 

 

一人、とても象徴的な人物が出てくる。人の道を踏み外した聖職者だ。神に仕えながら、子供達を使い、性的欲望を満たし続けているらしい。主人公はその「供物」として、潜入することをVに提案され、彼のもとを訪れる。

 

 

割と最近、ニュースで見た。カトリック教会の児童に対する性的虐待事件。有り難がられ、守られ、信頼された、聖職者というもの。疑う余地があまりに少ない。だからこそ、そこは悪事の温床になりうる。驚くべきことじゃない。聖職者がなぜ、なんてことは思わない。

 

 

聖職者だろうが、警官だろうが、結局はただの人間だ。

 

 

聖職者という存在がこの世にあるんじゃない。警官という存在が、この世にいるんじゃない。そういう肩書きを持った、人間がそこにいるだけだ。

 

 

そこに、どんな人間がいるかだ。

 

 

ただ、その装いに、正統性に、積み上げられた信頼に、人は容易に騙される。この完璧な仮面に、人は勝てない。

 

 

これは、知性のバグだ。聖職者は善である。だから、目の前の聖職者は善である。この考え方、帰納法的思考は、人間が自分の生命を守るのに、ものすごく高い効力を持っている。いままで経験してきた、危険なこと、もの、人、その特徴をサンプルとして収集して、目の前のものを判断する。僕たちが毎日火傷しなくて済むのは、ヤカンから立ち昇る蒸気は熱いという経験があるからだ。

 

 

 

 

ただ、この思考法にも穴はある。それは、必ずしもそうではないということ。そして、この必ずしも〜ない、に、重要な場面で行き当たれば、極めて重大なミスを犯す可能性がある。大きな大きな、チャンスを逃すことがある。むしろ、経験の多い大人こそ、この思考の落とし穴に、真っ逆さまに落ちていきうる。作り上げてきた経験に、寝首をかかれることがある。これは、僕たちの責任とは、断言できない。

 

 

「そうでない場合もあるだろう」経験へのプライドから、僕たちはこれを疑えない。加速の時代のせいで、それをやってる時間はない。僕は、これを疑える鈍さ、不器用さを捨てない。周りが疾走していく中、立ち止まることを、恐れない。

 

 

 

 

目の前の人間は、今まで会った人間の枠の内側に、必ずしも全身すっぽりと、立っているわけではない。また、全く新しい人と出会ったんだ。これから訪れる日が、自分の生きてきた年月の中にあるわけではない。

 

 

目の前のものは、常にどこかが新しい。

 

 

終盤でも、主人公は揺らぐ。地面に倒れてしまいそうなほどに揺らぐ。信用し始めていたVによって、精神の解放のためとはいえ、拷問を受けていたと知ったから。彼女は不信に陥る。もうだめだ。というところまで行く。でも、それで終わりじゃない。

 

 

その向こう側に、道を見出す。

 

 

裏切られ、傷つき、何者も、信用できない。そんな苦しい日々が訪れることがある。ただ、それは行き止まりじゃない。ちゃんとその先が用意されている。何も信じられない不信というのは、自分を信じるという、最大のギフトを手にするための、開封作業だ。自分への信頼、その不可欠なプロセスとして、人間不信は存在する。

 

 

己の罪を疑わない、狂気の司祭は、一歩一歩上り詰めた13階段の先で、生き絶える。Vの怒りによって。

 

 

怒りと憎悪に生きたVも、また揺らぐ。本当は復讐のために生き抜くと決めていた。が、主人公と出会った。復讐の道を行く途中で、彼女に出会った。

 

 

かつての怨敵を始末していく中、省みる悪人が登場する。彼を、Vという存在にするための、夥しい犠牲者を出したバイオテロを引き起こすための、非常に重要な役割を担った生物学者。ボイスオブロンドンとして、スポークスマンを務めながら、私腹を肥やす男、司祭の皮を被り、子供達を襲う男、そんな彼らと違い、元生物学者の女性は、自分の行為を恐れ、苦しみ、報いを受けようとする。これまでの、自分を何ら疑わない悪人たちと違う。罪の意識を持った敵。Vは、主人公との出会いも相まって、葛藤する。

 

 

 

 

憎悪を持った人間が、いくことのできる道は二つ。復讐者の道か、赦しの道か。Vは、復讐者の道を選んだ。道の終わりまで、彼は突き進むはずだった。ただ、その道の途中で彼女に出会った。彼女を、「これ以上愛せないというほどに」愛してしまった。彼は、もう一つの道を行くことにした。何かを残すこと。何かを託すこと。古い人間は去り、新しい何かを生み出すこと。そのための、腐葉土になること。宿敵を葬り、彼らと共に去ることにした。彼は死ぬことにした。なぜか。恋をしたからだ。

 

 

物語の流れでは、主人公は聖職者の元を流れ、会社の上司に匿われる。サドラー議長を面白おかしく風刺し、それを主人公と笑う。彼の思惑とは裏腹に、彼は粛清されてしまう。上司の家に殺到する特殊部隊から隠れ、過去のトラウマを再現するかのような場面に遭遇する。窓から飛び降り、逃げ出そうとするが、結局捕まってしまう。

 

 

独房に囚われ、交換条件を出される。Vの情報を渡せば、自由の身にすると、提案される。彼女は黙秘を続け、拷問、尋問を受ける。それでも彼女は、口を割らない。長く続いた独房生活の中で、ふと壁の一部に空いている、穴を発見する。

 

 

 

 

自分と同じように、政府に囚われ、死んでいった女性の手紙が、そこにはあった。彼女は、その手紙に、心を震わせる。自分から、何もかもが途絶えたと思っていたところに、それでも何かと繋がっていることがわかる。全てをなくし、住所を無くした人間が、宛名のない手紙を受け取る。彼女は理念を受け継いだ。最後の最後に、選択を迫られる。Vの情報を少しでも渡すか、さもなくば、倉庫の裏で銃殺されるか。彼女はNOと言った。

 

 

自分の道を見つけた。幸せな日々が、彼らの提案の向こうにあるかもしれない。平穏な日々が、裏切りを対価に、手に入るかもしれない。それでも彼女は、NOと言った。その、非合理的で、不可解な道を行くことに決めた。

 

 

納得のいく首輪を見つけた!

 

つづく                               

Vフォーベンデッタpart1

そう、Vフォーベンデッタ。遠い昔に初めて見て以来、何度も何度も繰り返し見ている、僕の大好きな映画です。何回見ても素晴らしいし、新たな発見がある。映画の主題だとか、登場人物だとか、ものすごく水が合う。

 

 

主人公の一人であるV、詩のような言葉、恨みの道、抑圧、強い共感を持つ。ただ、そのどっしりとした自信だけが、僕にはない。彼は、現実には存在しない。もちろん創作であるし、架空の人物だ。それでもやっぱり憧れている。

 

 

いつか来るであろう夜明けのように、彼のことを思っている。

 

 

彼のようであれたらと、何度も思った。彼だけじゃない。自分の道を強く生きる人達をみて、あんな風であれたらと、いつも思う。自分の道を生きるということ、手製の夢の中で生きること。例のごとくネタバレを交えながら、思うところを。

 

主人公は、世界第三次大戦を経て、独裁者の治める国になってしまったイギリスに住む女性。夜間外出禁止令が施行される中、友人の家を訪ねようとする。その道中で秘密警察に捕まり、襲われそうになる。そこに、仮面とマントに身を隠す一人の男が現れ、救い出される。

 

 

主人公は当惑する。言葉、装い、全てが不自然だ。男の言われるまま、裁判所が見える場所まで移動する。突然街中のスピーカーから音楽が鳴り出し、裁判所が爆破される。テロリズムだ。

 

 

かつて、火薬陰謀事件を企て処刑された、ガイ・フォークスに倣い、火薬を以って、悪政に痛手を負わせるべく、男は生きているらしい。彼の理念を愛し、ガイ・フォークスの仮面をかぶっている。

 

 

城、国立の施設、宗教的建築物、これらはただの、人の住む箱ではない。そこには、住む、ということ以上の意味がある。象徴としての意味だ。それらが破壊されることは、ただ一つの建物が壊れるということにはとどまらない。その建物の意味というものを拡声器のように利用して、仮面の男は、社会を変えようする。男はVと名乗った。

 

 

 

 

主人公の職場は、放送局だった。彼女は辛い過去を乗り越え(押し込め)、平凡に暮らし、普通に働いていた。そこに先日の、仮面の男Vが、またしても現れる。

 

 

用意周到に放送をジャックし、来年の11月5日に、国会議事堂に集うことを提案する。果たしてこのままでいいのかと、皆で立ち上がることを提起する。

 

 

Vは、放送局からの脱出に際し、圧倒的な体術とナイフ術で、警官をなぎ倒していく。しかし、不意に現れた刑事に、背後を取られてしまう。そこで、主人公はとっさに、刑事に催涙スプレーを浴びせ、Vを助ける。

 

 

 

 

ブイの隠れ家で目を覚ました主人公は、国家に背いたことに恐れおののく。刑事を攻撃してしまったこと、テロリストを助けてしまったこと、そして、目の前のテロリストに対して、少なからず好感を抱いていること。あらゆる葛藤の中で、主人公は迷う。

 

 

主人公は、過去の家族に関する記憶を除けば、平凡な女性だった。平凡に暮らし、平凡に一生を終えるはずだった。が、映画の最後では、全くの別人になってしまう。良いことか悪いことか、それはともかく、別人になった。その引き金になった男、V。このVという男の出現で、映画の中のすべてのものが変わっていく。

 

 

 

 

この、Vという男のこと、とても重要なことだから、先に語ってしまおう。彼は何者で、なぜ、そんな行動をして、なぜ、仮面をかぶっているか。映画の中で徐々に明かされていく真実を、書くのを待ちきれないから書いてしまおう。

 

 

彼は全体主義の、犠牲者だった。政府にとらわれ、生物実験の被験者にされた。新たな生物兵器開発のために、強制収容され、ウィルスを体に打ち込まれ、モルモットにされた人間の一人だった。彼は、夥しい数の実験台の、生き残りだった。

 

 

 

 

のちに見せる高い身体能力も、耐久性も、その実験の賜物だ。彼が押し隠すその表皮も、その一連の事件の中でもたらされた。彼の皮膚は焼けただれていた。ある時、実験施設が爆発事故を起こす。積み上げた実験の成果とともに、彼もまた、炎に焼かれた。そこで、彼は政府の元から逃げおおせ、復讐者となった。

 

 

大まかに説明すればそういうことになる。彼は、復讐に燃え、同時に、正義にも目覚めた。そして、ゆっくりと練り上げた計画を実行に移し始めたその時に、主人公に出会った。

 

 

彼をVにしたのは、言うまでもなく不幸だ。政府にとらわれ、問答無用で体にウィルスを打ち込まれた。酷い苦痛を強いられ、全てを奪われた。職があったろう。家族があったろう。読みかけの本があったろう。夢が、生活が、彼にはあったろう。信じがたい苦痛だ。耐えがたい不幸だ。

 

 

それなら、彼は、閉じ込められたか。彼の道は閉ざされたか。僕は思う。それは違う。Vへの道が開かれた。

 

 

僕は、ブログを書いている。恐らくは、自由に生きたいのだ、と思われることだろう。でも、そうじゃない。それは違う。

 

 

壁無くして腕力はない。陸無くして脚力がない、ということを以前の記事で書いた。同時に、枷無くして自由もまた無い、ということを思う。https://room1024.com/ディストラクションベイビーズ-暴力編

 

 

 

 

僕は、空を飛ぶことが出来ない。だから、空を飛べない苦しみを知らない。今日も歩いて、スーパーまで行くことが出来る。その自由を持っている。もし、空を飛ぶ能力を持ったなら、歩くことに耐えられるだろうか。僕はその不自由を知らない。空を飛べないからこそ、地面を歩く自由を持っている。

 

 

微生物を引き合いに出してみる。彼らはただ、分解をし続ける。自然の中で不要になったものを、ただひたすら、分解し続けて一生を終える。

 

 

それしか出来ない。だから、それをやっていればいい。

 

 

完璧な人生だ。完璧な自由だ。分を超えても、分を割ってもいない。そんな風になりたい。

 

 

現代は自由になった。身分、職業、生まれ、そんなものが自由を阻害することもなくなった。それ自体は良いことだ。何処へでもいける。何にでもなれる。自由への扉は開かれる。

 

 

ただ、人は依然として、いや、以前にも増して不自由だ。

 

 

自由への扉は、同時に、どこかへ行かなければならないという、不自由を課す。どこにでもいける。にも関わらず、そのほとんどの扉は通れない。体は一つしかない。どれだけ扉が開かれようと、行けるのは、そのうち一つだけだ。

 

 

結局のところ、この扉を開くしかない。それが、自由だ。

 

 

自由を持っていれば持っているほど、何かを選択した時に、諦めなければならない自由の量は多い。

 

 

彼は、Vになるしかなかった。彼は、そう定められていた。あの、恐ろしい不幸が、それには不可欠だった。この不幸がなければ、どのルートを行ったとしても、Vには達しなかった。

 

 

彼は、強いられた方向に解放された。それが、彼の自由だった。

 

 

つづく                               

映像と画像

f:id:rennT:20210925183754j:plain

スマホが一般に普及し始め、SNSYouTubeによって、個人投稿が容易になって以来、爆発的に増えてきた不適切動画というものがある。毎日、さまざまな「不適切」と呼ばれる動画が、更新される。

 

犯罪行為、モラル的な違反行為、仲間内に見せようとしたものが、うっかり全世界に共有されてしまった例も多い。

 

今日もまた、新しいものを目にした。また、色んなところで、色んなことが言われるだろう。

 

映像と画像の拡散、これはもう、不可逆的な流れだ。これからもたくさんの映像画像を目にしていくはず。社会発展のお約束だ。技術革新は、良いことも、悪いことも、同時にもたらす。

 

当事者としてではなくて、スマホの画面の中にいる彼らを、外野から眺める人間として、気をつけなければならないこと、そして、そんな不適切動画に限らず、映像と画像というものに関して、思うところを書いてみた。

現場の顔写真

僕は、写真や映像があまり、好きじゃない。昔からそうだった。旅行をして、写真を撮って、見直して。それのなにがそんなに良いんだろうと、小さな頃から疑問を持っていた。大抵の家庭でそうであるように、僕の実家や親戚の家にも、写真アルバムがあった。

 

周りがニコニコしながら、この時はこうだった、あの時はどうだったと、思い出話に花を咲かせている間、僕はなんだか、置いてけぼりにされたような心地で、写真を眺めていた。そのアルバムに写っている自分は、なんだか虚ろで、凍っていて、もうこの世にはいない存在であるかのように、僕の目には写った。つまり、再現ということが、僕にはあまり良いものじゃなかった。そこには、死んだ現実があった。

 

当然、再現には、良い面もある。普通は写真を眺めて、思い出に浸ることは楽しいことだし、僕が好きな、映画や音楽、本、全て、その再現性によって、僕のような消費者のところへ届く。ある、遠い場所で作られた、価値というものが、科学技術によってたくさんの人の目に届く。僕はそれを楽しんでいる。享楽している。YouTubeも、Apple Musicも、既に生活の一部だ。

 

これは、画像をはじめとする、再現性の正の面だ。あらゆる価値、あらゆる思想、あらゆる言葉が、公に向けて共有される。素晴らしいことだ。

 

ただ、それだけでは不十分だ。正があるなら、負がある。それが現実だ。両面あって、やっと、それはそれ自体であれる。何故だか、僕はこの再現性の負の部分に敏感に出来ている。昔から感じてきたあのモヤモヤを、言葉にしてみよう。

 

それは、ズバリこうだ。

 

カメラは、その機能によって、レンズに映った光景を、全体から切り取る。つまり、目の前の現場を、ボタン一つでホルマリン漬けにする。あるいは、現実の顔面(外貌)だけを写し取る。生の現実から、顔だけをむしり取って、そこに並べる。

 

その場に居合わせなかった者は、その現場の外見だけしか、見て取ることができない。その場での、事情というものを、すきとってしまう。

 

写真をパッと見て、うかがい知ることができるのは、その現場の顔(外貌)だけだ。僕は、顔というものが笑顔を見せているからといって、心もまた、必ずしも同じように微笑んでいるわけではないということを知っている。

 

そこに映し出されている視覚的事実が、全体を包括する事実であるかどうかには、疑う余地がある。

 

一度、不意にスマホのカメラ越しに、自分の住んでいるマンシャンを、見たことがある。そこに映っていた建物は、とても汚れていて、無機的で、なんというか、恐ろしい印象を受けた。カメラというのは、現実というものを、過剰に、刺激的にする効果があるのかも知れない。

 

ここ何年かで、バカッターや、炎上動画と呼ばれるたくさんの映像画像を目にした。たしかに、バカだなと思う。確かに、良くないことだ。ただ、僕は、彼らの行動の是非や、償いには、大した関心がない。それよりも、この傍観者である立場を考えるのに必死になる。

 

他人の失態の証拠写真を見て、ああ、バカやってる。と吹き出す。そこに映し出されている素っ頓狂な「顔面」とのにらめっこに負け続ける。その奇妙な顔との連戦連敗は確実に、こちらから、戦利品として何か大切なものを持ち去っている。

裁判と事情

僕たちの精神構造は、どんどんと、為政者的になっていってはいないか。バカな動画を見て、お前は悪いと思う。事情なんて知らず。

 

司法にとって、事情は関係がない。いかに酷い目に遭わされようと、合理的な理由があろうと、正当防衛が成立しない限り、殺人は犯罪だ。そこに、どんな事情があろうと。

 

状況はどうあれ、事情はどうあれ、貴様は罪を犯したのか、という心理。こいつは、有罪か無罪か、というこの心理。スマホの画面を見つめる僕たちは、いつのまにか、裁判官の服に袖を通している。

 

僕たち一般市民にとって、判決よりもむしろ、この事情というものの方が、重要であるはずなのに。複雑で、個別的で、ドラマチックで、かつ、良いだとか悪いだとか、そんな一言では言い表せない、事情の中を、歩んでいるはずなのに。

 

世の中全体が、裁判所のような空気がある。

形容詞は、思考の終わり

そもそも何かを見て、これは善だとか、これは悪だとか、そんな尺度をまずはじめに持ち出すのは、正常な状態なんだろうか。善悪の定規では測れないものだって、たくさんあるはずだ。それにもかかわらず、倫理観を刺激すると見るや、すぐさまこの定規を取り出し、現実にあてがう。これはあるべき姿なんだろうか。

 

すごい、良い、悪い、やばい。これらの形容詞は、思考を終わらせる。まず出てくるのは、絶対におかしい。最後の最後に、出てくるべきものだ。なんだったら、着地なんてしなくても良いんだ。分かったことにするよりも、ああ、分からないと頭を抱える方が、まだ健全だ。

 

写真や映像は、それが好奇心の入り口である限り、価値のあるものだ。

 

僕にとって、写真アルバムというのは、死体安置所みたいなものだった。死んだ状況、風化した事情が、そこに並べられているだけだった。壊死した自分を、コレクションしている気持ちになっていた。

 

今では、楽しめるようになった。良い面、悪い面の両面を捉え、この2次元の世界を、立体的に味わえるようになってきた。

 

写真のように、凍りついて生きるのをやっとやめられたなら、昔の写真の中の僕は、その風景の中を、こちらに手を振って、どこかへ歩き出していくだろう。 

2つのブラックボックス

f:id:rennT:20210920124448j:plain

血管外科医のドキュメンタリーを見た。世界的な血管外科の権威であり、沢山の命を救ってきたメディカルヒーローの仕事に密着していた。自分とは全く違う世界で、全く違うものに向き合い続ける人間の意思、そして言葉。

 

最近、創作よりも、ドキュメンタリーに興味を惹かれ出した。

 

ドキュメンタリーは、見えにくい真実を伝える。その人が、日常的に、肉体の目で見ているものを、映像が写す。科学が肩代わりする。でも、精神の目で見た景色は、どうしても見ることができない。どんな優れたカメラにも映らない。その人にしか見ることができなかった風景を、投影する言葉というもの。それが語られる。創作物には出せない魅力がある。

 

ドキュメンタリーは、映像に写る景色と、映らない景色、その両方を、見せてくれる。そして、面白いドキュメンタリーは、自分の何かを変えてくれる。幻想を破壊してくれる。

 

さあ、というわけで、僕の一体どこが壊れたのか。粉砕した掘っ建て小屋を、記事にしてみます。崩壊工事の進捗報告です。

グロテスク

当然のことながら、内科医のドキュメンタリーだから、手術室にもカメラが入る。おびただしい出血、取り出された内臓、正直言って、見るに耐えない。

 

血や内臓、人間の中身は、当然、僕たちの命の素だ。それがないと、生きてゆけない。これらは僕たちにとって必需品であるし、厳然たる所有物に違いない。

 

にもかかわらず、不気味で、異様で、グロテスクだ。なぜなんだろう。なんでこんなにも、正視に耐えない感覚を持つんだろう。

 

おそらくそこには、永い時間をかけて人間が積み上げてきた、経験則がある。

 

医療技術がこうまで発達してきたのは、つい最近になってからだ。たかだか数百年前までは、外科手術として、患部(手足)を刃物でまるごとぶった切ってたらしい。しかも麻酔なしで。怖すぎる。

 

そして、現生人類に絞ってみても、約二十万年前から、人は生きている。医療なんてないままに。つまり、血や内臓を目で見るということは、直接死に近づくことだった。一定以上の出血があれば、内臓が露出していれば、もう助からない、ということだった。だからこうも、人間の中身は気味が悪く、見ていられない、という感覚を持つんだろう。そんなものは、避けるに越したことはない。

 

でも、医者はおそらく違う。素人の感覚ももちろんもっているだろうけど、彼らは血を見なければ、内臓を触らなければ、何も始まらない。そこで問題が出されているのだから、回答を書き込むために、胸を、腹を、開いてみなければ話にならない。

 

命に干渉することによって、病という、死への加速を緩めなければならない。目を見開いて、注視しなればならない。

 

医者にとって、中身は、自然で、日常的なものなんだろう。

 

ただ、医療の目覚ましい発展の上に暮らしている僕たちにとって、まだ、中身はグロテスクだ。これは、不思議なことだ。なぜ、いつまでも僕たちは中身がグロいんだろう。もう、遠い場所ではないのに。そして、なによりも、大切なもののはずなのに。大切であるにもかかわらず、いや、大切だからこそ、いつまでも、それはグロテスクであり続けるんだろうか。

ブラックボックス

そう考えてみると、僕たち中身の素人にとっては、いや、もしかしたら肉の専門家にとっても、体内というのは、いつまでも、異世界なのかもしれない。僕たちは、中身のことを知らずに生きている。

 

ある程度、中に何が入っているのかを知っている。機能も、大体わかる。でも、今この時に、一体何がどうなっているのかは分からない。中で何が起こっているか、知らずに生活している。ブラックボックスだ。

 

例えば、子供が生まれた時に、みんなが祝福する。おめでとうございます!生命の誕生です!この世に、新たな命が生誕しました!

 

いやいや、もうちょっと前じゃない?約一年くらい。母胎には、ずっと子供はいたわけだから。

 

そんなことで、一般的な死生観でいうと、胎内というのは、この世ではないらしい。やっぱり、どうやら中身は異世界だと思って僕たちは暮らしているようだ。

 

精神だってそうだ。本当のところ、心のことは、よく分からない。こうすれば不快だ。こうすれば快い。それは、なんとなくわかっている。でも、その仕組みは解明されていない。心も体も、ここまで精神分析や、医療が発達してもなお、未だにブラックボックスのままだろうと思う。だから、保険屋は儲かるし、カウンセラーも食いっぱぐれない。

 

そして、それはなくてはならない。そんなものに基づいて、僕たちは生きている。

 

リストカットというものがある。自分で手首を切り、流れ出る血を見て、安心するのだそう。今まで、これの意味がわからなかった。痛そうだし、グロい。

 

でも、今わかった。リストカットをする人々にとって、中身よりも、この外側の世界の方が、グロテスクだったんだ。目の前の世界こそ、目を覆いたくなる、不気味で、異様なものだったんだ。内側の、命の方を覗き込んで、安心していたんだろうな。

 

血糊や、グロテスクな美術を使った映画やゲーム、沢山の作品がある。今まで、ただ、刺激を追求しただけの怠慢だと、ただの露悪的なものだと思っていたけど、こういうものでさえ、SFやヒューマンドラマのように、謎(異物、異世界)への挑戦という、さらなる深みへの潜水という、正当芸術の流儀を汲んでいるのかもしれない。

 

僕は今や、現実を生きていこうとする気力はある。でも、そんな時代があった。自分に必死に傷をつけていた。リストカットをしたわけじゃない。でも、血みどろの、暗いものばかり見て、聴いていた。ブラックボックスに穴を開けようとしていた。外側の傷ではなく、内側への傷を作っていた。

 

今となっては、そういったグロテスクな物への興味は失せたけど、それによって生きていた時期があった。

 

異様で不気味な現実から逃げるために、よく分からない、自分の心というものが見たくて、傷を入れていた。

 

そこから流れ出した赤い光が、この太陽の降り注ぐ闇を照らしていた。

人は、心という言葉を使う。心が満たされた。心が傷ついた。

 

でも、罵られて傷つくのは、みんな一緒だ。嬉しいことがあって、心が満たされるのは、誰もが同じだ。

 

そんなのは、みんなおんなじなんだ。そしてそれが、生きたということだと、どうしても思えない。ただ、そうだった。起こったことに、反応した。条件反射した。それだけでは、本当に生きたとは思えない。

 

それはただ、翻弄されただけなんじゃないか。それなら僕は、僕じゃなくても良かったんじゃないか。

 

人は、沢山の付箋を貼っている。ブラックボックスのこと自体はわからないから、そこにメモを残しておく。起こったことを考える。感じたことを蓄積する。心がこう動いた。つまり、それはこういうことなのか。そういう心の注釈を書き溜めていく。この付箋が、おそらく経験の正体だ。

 

心で感じただけでは、心を使ったことにはならないと思うんだ。

 

だから、この、付箋を貼るということ。それぞれが、心で感じたことに基づいて考えたこと、それが、生きたということだ。

 

風で飛ぶようなこの走り書きの束こそが、生きるということの本編だと思う。

 

だから、考えることは無駄じゃない。それこそが、生きるということだ。さあ、考えよう。言葉にしよう。

 

二つのブラックボックスを抱えながら生きる僕の足取りは、謎解きのように行ったり来たりでまどろっこしい。今日も、千鳥足でこの謎へと向かっていく。傷を作り、中を覗き込む。付箋を貼る。

 

あっちへ行ったり、こっちへ来たり、常に遭難している。

 

ただ、迷いなしに辿り着かれた新天地なんて存在しないと思う。新大陸への途中地点を、遭難と呼ぶんだ。

 

ブラックボックスに貼り付ける、一枚の付箋として、そう書いておこう。 2019.08.28