1024号室

納得のいく首輪を探しています

2つのブラックボックス

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血管外科医のドキュメンタリーを見た。世界的な血管外科の権威であり、沢山の命を救ってきたメディカルヒーローの仕事に密着していた。自分とは全く違う世界で、全く違うものに向き合い続ける人間の意思、そして言葉。

 

最近、創作よりも、ドキュメンタリーに興味を惹かれ出した。

 

ドキュメンタリーは、見えにくい真実を伝える。その人が、日常的に、肉体の目で見ているものを、映像が写す。科学が肩代わりする。でも、精神の目で見た景色は、どうしても見ることができない。どんな優れたカメラにも映らない。その人にしか見ることができなかった風景を、投影する言葉というもの。それが語られる。創作物には出せない魅力がある。

 

ドキュメンタリーは、映像に写る景色と、映らない景色、その両方を、見せてくれる。そして、面白いドキュメンタリーは、自分の何かを変えてくれる。幻想を破壊してくれる。

 

さあ、というわけで、僕の一体どこが壊れたのか。粉砕した掘っ建て小屋を、記事にしてみます。崩壊工事の進捗報告です。

グロテスク

当然のことながら、内科医のドキュメンタリーだから、手術室にもカメラが入る。おびただしい出血、取り出された内臓、正直言って、見るに耐えない。

 

血や内臓、人間の中身は、当然、僕たちの命の素だ。それがないと、生きてゆけない。これらは僕たちにとって必需品であるし、厳然たる所有物に違いない。

 

にもかかわらず、不気味で、異様で、グロテスクだ。なぜなんだろう。なんでこんなにも、正視に耐えない感覚を持つんだろう。

 

おそらくそこには、永い時間をかけて人間が積み上げてきた、経験則がある。

 

医療技術がこうまで発達してきたのは、つい最近になってからだ。たかだか数百年前までは、外科手術として、患部(手足)を刃物でまるごとぶった切ってたらしい。しかも麻酔なしで。怖すぎる。

 

そして、現生人類に絞ってみても、約二十万年前から、人は生きている。医療なんてないままに。つまり、血や内臓を目で見るということは、直接死に近づくことだった。一定以上の出血があれば、内臓が露出していれば、もう助からない、ということだった。だからこうも、人間の中身は気味が悪く、見ていられない、という感覚を持つんだろう。そんなものは、避けるに越したことはない。

 

でも、医者はおそらく違う。素人の感覚ももちろんもっているだろうけど、彼らは血を見なければ、内臓を触らなければ、何も始まらない。そこで問題が出されているのだから、回答を書き込むために、胸を、腹を、開いてみなければ話にならない。

 

命に干渉することによって、病という、死への加速を緩めなければならない。目を見開いて、注視しなればならない。

 

医者にとって、中身は、自然で、日常的なものなんだろう。

 

ただ、医療の目覚ましい発展の上に暮らしている僕たちにとって、まだ、中身はグロテスクだ。これは、不思議なことだ。なぜ、いつまでも僕たちは中身がグロいんだろう。もう、遠い場所ではないのに。そして、なによりも、大切なもののはずなのに。大切であるにもかかわらず、いや、大切だからこそ、いつまでも、それはグロテスクであり続けるんだろうか。

ブラックボックス

そう考えてみると、僕たち中身の素人にとっては、いや、もしかしたら肉の専門家にとっても、体内というのは、いつまでも、異世界なのかもしれない。僕たちは、中身のことを知らずに生きている。

 

ある程度、中に何が入っているのかを知っている。機能も、大体わかる。でも、今この時に、一体何がどうなっているのかは分からない。中で何が起こっているか、知らずに生活している。ブラックボックスだ。

 

例えば、子供が生まれた時に、みんなが祝福する。おめでとうございます!生命の誕生です!この世に、新たな命が生誕しました!

 

いやいや、もうちょっと前じゃない?約一年くらい。母胎には、ずっと子供はいたわけだから。

 

そんなことで、一般的な死生観でいうと、胎内というのは、この世ではないらしい。やっぱり、どうやら中身は異世界だと思って僕たちは暮らしているようだ。

 

精神だってそうだ。本当のところ、心のことは、よく分からない。こうすれば不快だ。こうすれば快い。それは、なんとなくわかっている。でも、その仕組みは解明されていない。心も体も、ここまで精神分析や、医療が発達してもなお、未だにブラックボックスのままだろうと思う。だから、保険屋は儲かるし、カウンセラーも食いっぱぐれない。

 

そして、それはなくてはならない。そんなものに基づいて、僕たちは生きている。

 

リストカットというものがある。自分で手首を切り、流れ出る血を見て、安心するのだそう。今まで、これの意味がわからなかった。痛そうだし、グロい。

 

でも、今わかった。リストカットをする人々にとって、中身よりも、この外側の世界の方が、グロテスクだったんだ。目の前の世界こそ、目を覆いたくなる、不気味で、異様なものだったんだ。内側の、命の方を覗き込んで、安心していたんだろうな。

 

血糊や、グロテスクな美術を使った映画やゲーム、沢山の作品がある。今まで、ただ、刺激を追求しただけの怠慢だと、ただの露悪的なものだと思っていたけど、こういうものでさえ、SFやヒューマンドラマのように、謎(異物、異世界)への挑戦という、さらなる深みへの潜水という、正当芸術の流儀を汲んでいるのかもしれない。

 

僕は今や、現実を生きていこうとする気力はある。でも、そんな時代があった。自分に必死に傷をつけていた。リストカットをしたわけじゃない。でも、血みどろの、暗いものばかり見て、聴いていた。ブラックボックスに穴を開けようとしていた。外側の傷ではなく、内側への傷を作っていた。

 

今となっては、そういったグロテスクな物への興味は失せたけど、それによって生きていた時期があった。

 

異様で不気味な現実から逃げるために、よく分からない、自分の心というものが見たくて、傷を入れていた。

 

そこから流れ出した赤い光が、この太陽の降り注ぐ闇を照らしていた。

人は、心という言葉を使う。心が満たされた。心が傷ついた。

 

でも、罵られて傷つくのは、みんな一緒だ。嬉しいことがあって、心が満たされるのは、誰もが同じだ。

 

そんなのは、みんなおんなじなんだ。そしてそれが、生きたということだと、どうしても思えない。ただ、そうだった。起こったことに、反応した。条件反射した。それだけでは、本当に生きたとは思えない。

 

それはただ、翻弄されただけなんじゃないか。それなら僕は、僕じゃなくても良かったんじゃないか。

 

人は、沢山の付箋を貼っている。ブラックボックスのこと自体はわからないから、そこにメモを残しておく。起こったことを考える。感じたことを蓄積する。心がこう動いた。つまり、それはこういうことなのか。そういう心の注釈を書き溜めていく。この付箋が、おそらく経験の正体だ。

 

心で感じただけでは、心を使ったことにはならないと思うんだ。

 

だから、この、付箋を貼るということ。それぞれが、心で感じたことに基づいて考えたこと、それが、生きたということだ。

 

風で飛ぶようなこの走り書きの束こそが、生きるということの本編だと思う。

 

だから、考えることは無駄じゃない。それこそが、生きるということだ。さあ、考えよう。言葉にしよう。

 

二つのブラックボックスを抱えながら生きる僕の足取りは、謎解きのように行ったり来たりでまどろっこしい。今日も、千鳥足でこの謎へと向かっていく。傷を作り、中を覗き込む。付箋を貼る。

 

あっちへ行ったり、こっちへ来たり、常に遭難している。

 

ただ、迷いなしに辿り着かれた新天地なんて存在しないと思う。新大陸への途中地点を、遭難と呼ぶんだ。

 

ブラックボックスに貼り付ける、一枚の付箋として、そう書いておこう。 2019.08.28