1024号室

納得のいく首輪を探しています

映像と画像

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スマホが一般に普及し始め、SNSYouTubeによって、個人投稿が容易になって以来、爆発的に増えてきた不適切動画というものがある。毎日、さまざまな「不適切」と呼ばれる動画が、更新される。

 

犯罪行為、モラル的な違反行為、仲間内に見せようとしたものが、うっかり全世界に共有されてしまった例も多い。

 

今日もまた、新しいものを目にした。また、色んなところで、色んなことが言われるだろう。

 

映像と画像の拡散、これはもう、不可逆的な流れだ。これからもたくさんの映像画像を目にしていくはず。社会発展のお約束だ。技術革新は、良いことも、悪いことも、同時にもたらす。

 

当事者としてではなくて、スマホの画面の中にいる彼らを、外野から眺める人間として、気をつけなければならないこと、そして、そんな不適切動画に限らず、映像と画像というものに関して、思うところを書いてみた。

現場の顔写真

僕は、写真や映像があまり、好きじゃない。昔からそうだった。旅行をして、写真を撮って、見直して。それのなにがそんなに良いんだろうと、小さな頃から疑問を持っていた。大抵の家庭でそうであるように、僕の実家や親戚の家にも、写真アルバムがあった。

 

周りがニコニコしながら、この時はこうだった、あの時はどうだったと、思い出話に花を咲かせている間、僕はなんだか、置いてけぼりにされたような心地で、写真を眺めていた。そのアルバムに写っている自分は、なんだか虚ろで、凍っていて、もうこの世にはいない存在であるかのように、僕の目には写った。つまり、再現ということが、僕にはあまり良いものじゃなかった。そこには、死んだ現実があった。

 

当然、再現には、良い面もある。普通は写真を眺めて、思い出に浸ることは楽しいことだし、僕が好きな、映画や音楽、本、全て、その再現性によって、僕のような消費者のところへ届く。ある、遠い場所で作られた、価値というものが、科学技術によってたくさんの人の目に届く。僕はそれを楽しんでいる。享楽している。YouTubeも、Apple Musicも、既に生活の一部だ。

 

これは、画像をはじめとする、再現性の正の面だ。あらゆる価値、あらゆる思想、あらゆる言葉が、公に向けて共有される。素晴らしいことだ。

 

ただ、それだけでは不十分だ。正があるなら、負がある。それが現実だ。両面あって、やっと、それはそれ自体であれる。何故だか、僕はこの再現性の負の部分に敏感に出来ている。昔から感じてきたあのモヤモヤを、言葉にしてみよう。

 

それは、ズバリこうだ。

 

カメラは、その機能によって、レンズに映った光景を、全体から切り取る。つまり、目の前の現場を、ボタン一つでホルマリン漬けにする。あるいは、現実の顔面(外貌)だけを写し取る。生の現実から、顔だけをむしり取って、そこに並べる。

 

その場に居合わせなかった者は、その現場の外見だけしか、見て取ることができない。その場での、事情というものを、すきとってしまう。

 

写真をパッと見て、うかがい知ることができるのは、その現場の顔(外貌)だけだ。僕は、顔というものが笑顔を見せているからといって、心もまた、必ずしも同じように微笑んでいるわけではないということを知っている。

 

そこに映し出されている視覚的事実が、全体を包括する事実であるかどうかには、疑う余地がある。

 

一度、不意にスマホのカメラ越しに、自分の住んでいるマンシャンを、見たことがある。そこに映っていた建物は、とても汚れていて、無機的で、なんというか、恐ろしい印象を受けた。カメラというのは、現実というものを、過剰に、刺激的にする効果があるのかも知れない。

 

ここ何年かで、バカッターや、炎上動画と呼ばれるたくさんの映像画像を目にした。たしかに、バカだなと思う。確かに、良くないことだ。ただ、僕は、彼らの行動の是非や、償いには、大した関心がない。それよりも、この傍観者である立場を考えるのに必死になる。

 

他人の失態の証拠写真を見て、ああ、バカやってる。と吹き出す。そこに映し出されている素っ頓狂な「顔面」とのにらめっこに負け続ける。その奇妙な顔との連戦連敗は確実に、こちらから、戦利品として何か大切なものを持ち去っている。

裁判と事情

僕たちの精神構造は、どんどんと、為政者的になっていってはいないか。バカな動画を見て、お前は悪いと思う。事情なんて知らず。

 

司法にとって、事情は関係がない。いかに酷い目に遭わされようと、合理的な理由があろうと、正当防衛が成立しない限り、殺人は犯罪だ。そこに、どんな事情があろうと。

 

状況はどうあれ、事情はどうあれ、貴様は罪を犯したのか、という心理。こいつは、有罪か無罪か、というこの心理。スマホの画面を見つめる僕たちは、いつのまにか、裁判官の服に袖を通している。

 

僕たち一般市民にとって、判決よりもむしろ、この事情というものの方が、重要であるはずなのに。複雑で、個別的で、ドラマチックで、かつ、良いだとか悪いだとか、そんな一言では言い表せない、事情の中を、歩んでいるはずなのに。

 

世の中全体が、裁判所のような空気がある。

形容詞は、思考の終わり

そもそも何かを見て、これは善だとか、これは悪だとか、そんな尺度をまずはじめに持ち出すのは、正常な状態なんだろうか。善悪の定規では測れないものだって、たくさんあるはずだ。それにもかかわらず、倫理観を刺激すると見るや、すぐさまこの定規を取り出し、現実にあてがう。これはあるべき姿なんだろうか。

 

すごい、良い、悪い、やばい。これらの形容詞は、思考を終わらせる。まず出てくるのは、絶対におかしい。最後の最後に、出てくるべきものだ。なんだったら、着地なんてしなくても良いんだ。分かったことにするよりも、ああ、分からないと頭を抱える方が、まだ健全だ。

 

写真や映像は、それが好奇心の入り口である限り、価値のあるものだ。

 

僕にとって、写真アルバムというのは、死体安置所みたいなものだった。死んだ状況、風化した事情が、そこに並べられているだけだった。壊死した自分を、コレクションしている気持ちになっていた。

 

今では、楽しめるようになった。良い面、悪い面の両面を捉え、この2次元の世界を、立体的に味わえるようになってきた。

 

写真のように、凍りついて生きるのをやっとやめられたなら、昔の写真の中の僕は、その風景の中を、こちらに手を振って、どこかへ歩き出していくだろう。