1024号室

納得のいく首輪を探しています

ディストラクションベイビーズ 暴力編

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出典:映画.com

今回はちょっと、映画の感想でも書いてみようと思います。

 

さしあたって、予め書いておきたいことが2つ。まず、これは宣伝ではありません。うまく肝を隠しながら、興味を引かせるような技術を持っていません。なので、ネタバレがあると思います。ご了承ください。

 

もう一つには、僕は評論家ではありません。また、映画に詳しくもありません。だから、自分の心で感じたこと、興味を引かれた部分を、断片的に書いていくに留まります。

 

ただ、これだけ贅沢に時間を過ごしたから、単なる消費で済ませたくなかったということなんです。そもそも、ネタバレで瓦解するような魅力の映画とも思えない。

 

そんなところで、よろしくお願いします。

 

ディストラクションベイビーズ

まず、この映画はキャラクター映画です。世界観じゃない。最後に物語のどんでん返しがあるわけでも、トラックが仕込まれているわけでもない。主人公の強烈な個性が、最初から最後まで、ノンストップで物語を貫いている。そういう映画だ。主人公泰良を語らないと、この映画は語れない。

 

そして暴力。この映画における、誰の目にも明らかな主要テーマ。主人公は、全編に渡って、人を殴り続ける。相手、場所、立場、そんなことには少しも気を止めず、暴力を行使し続ける。冒頭から、もう喧嘩のシーンだ。多人数を相手に立ち向かっていく。相手はバットを持っている。惜しげも無く使う。その喧嘩は、「大人」の登場でうやむやになってしまう。ただ、そこからはもう、一人になってからは、延々と喧嘩だ。バンドマン、チンピラ、高校生。

 

僕は映画を見るときに、主人公をまず理解しようとする。いい映画は、イントロダクションが素晴らしい。巧みに情報を盛り込んで、鑑賞の上での土台作りの手助けをしてくれる。ゴッドファーザーpart1がなぜ娘の結婚式(多くの人間が集まり、それぞれが反射しあう)から始まるのかって話だ。でも、この映画は、最後まで主人公を理解することができない。何も明かしてくれない。いや、むしろ最初から全てをさらけ出している。相手を探して、見つける。喧嘩を吹っかける。他に、何に対しても興味を示さない。他に何もない。

 

主人公の目的というのは、映画において物語の軸になりうるだけの力を持っている。主人公が目的に向かって行く姿の中に、僕は、感動だとか、怒りだとか、辟易だとか、いろんなものを感じる。そういう意味において、この映画の主人公泰良の目的は、ただの喧嘩だ。何かあるかと見ていても、他に何も見出せない。そこで、この主人公の目的というものを、考察してみる。外見上は、喧嘩を求めているとしても、実際に何を欲しがっているのか、喧嘩に何を見出しているのかは、別にあるはず。

泰良の目的

僕は、彼は、限界を求めているのだと思う。

 

彼は、喧嘩をして、相手に勝とうとする。打倒して、屈服させて、踏破しようとする。パッと見では、自由だとか、スリルだとか、そんな若い欲望を持っているように見える。破滅的で、刹那的。分かりやすく考えればそうだ。

 

ただ、彼がこれだけ執拗に素手で、単独で、強そうな人間を選ぶ様子を見ると、彼が本当に出会いたかったものというのは、壁ではないかと思えてくる。彼は、超えることのできない壁に出会い、不自由へと叩きつけられることを求めた。求めたのは、自由じゃない。変な書き方をするけど、僕は、自由は人間を自由にするものではないと思う。

 

例えば、ひとりの人間が、何者にも縛られない自由を得たとして、本当に何事からも解放されたとして、そんな、手の施しようのない自由というものは、その人間を立ちつくさせるだけじゃないかと思う。

 

自由とは、何にも規定されないという事。何物にも、縛られないという事。つまり、限界が、形を、存在を作る。

 

壁無くして、一体どんな腕力があるだろう。陸無くして、どんな脚力があるだろう。ひとりの相手という限界無くして、どんな色の恋があるだろう。

 

僕はそんな風に思う。

 

彼が喧嘩に誘惑されてやまないのは、陸の無い浮遊感に、壁のない広漠さに、耐えられなかったからじゃないか。

 

昨今では、「自由を求めよ」「好きに生きよ」という標語がそこかしこで掲げられている。なるほど、長い間日本人に加えられ続けてきた日本的な抑圧や鬱屈へのカウンターだろうなと思う。その気持ちはよくわかる。共感もできる。そうあるべきだと思う。ただ、この言葉には、少し語弊もある。

 

何者にも縛られず、自由に生きよう、では、言葉足らずだ。

 

実際には、「納得のいく首輪を探せ」というのが正しい。自由が足りないんじゃ無くて、首輪を間違えただけだ。

 

首輪が嫌なんじゃない。その首輪が嫌なだけだ。

 

泰良について言うと、彼は基本的に、成人男性しか相手にしない。少しでも骨太の、かつ向かってきそうな相手を選ぶ。つまり、壁となりうるものを選ぶ。高校生とも喧嘩していた。ただ、明らかに辟易している。ギリギリ、選定条件を満たしたと言うところなのかな。三人だしね。

 

彼の信頼

彼は、喧嘩なんてせず、まともに生きている人間よりも、よほど社会を、人を信頼している。攻撃というのは、ある種の信頼と言える。これぐらいならやっても大丈夫だろ?これくらいで破壊されるほど脆くなんてないだろ?ということ。少なくとも、激情に駆られていない(目的が破壊でない)限り、攻撃というのは、確認作業のようなものだ。例えば、いたずらっ子なんてそうだ。親のキャパシティー、タフネスの確認をしている。

 

でも、平和主義者はそうじゃない。彼らが見ているのは、憎んでいるのは、人間の残虐さじゃない。暴力の悲惨さじゃない。人間の脆弱さだ。彼らが本当に絶望を感じているのは、暴力ではなく、人間の耐久性だ。

 

非暴力を謳ったガンジーの思想の底に、人間というものへの徹底した不信感がなかったとは言い切れない。互いを尊重し、相互理解をしていこうという、世界的な動きの裏には、人間は脆いのだ、という、不都合な事実の発覚がある。

 

多種多様な暴力

至る所で振るわれる暴力自体に関して言えば、物語後半で、なし崩し的にチームを組むことになった三人(泰良、ナナ、ゆうや)は、三者三様の暴力を見せてくれた。

 

泰良は、先に書いた通り、暴力自体に魅力を見出している。暴力自体が目的の暴力、目的は楽しむこと。何か別のものの為ではない。それに伴う結果や波及には、全く意を介さない。つまり、現在のための暴力。「快楽の暴力」

 

悪徳プロモーターゆうや。彼もまた、理不尽な暴力を振るう。快楽の暴力もあった。ただ、彼は別の暴力も使った。警察に連絡をしようとした男性、助けを呼ぶために、携帯電話を取ろうとしたナナ、この二人への暴力は、どちらかというと脅しに近い。不利益な未来を妨げるための暴力。つまり、未来のための暴力。「予防の暴力」

 

ナナ。彼女は、意図せず、ゆうやが殴り倒した男性を轢いてしまう。息絶えたと思い込み、トランクに押し込めようとする。その最中、突然男性が覚醒する。ナナは驚き、トドメを刺す。この時の感情は、最初見たときにはよく分からなかった。ただ、こう考えれば合点が行く。これは、もみ消しだ。口封じ、帳消し。そんな意味合いの暴力だ。つまり、過去のために、暴力を振るった。「帳消しの暴力」

 

快楽の暴力、予防の暴力、帳消しの暴力。どうやら、暴力にも、用法があるらしい。

 

それともう一つ重要な点。これは、他のバイオレンス映画も合わせてみて考えたことなんだけど、暴力というものは、行為者と対象者を、強制的に、結びつけてしまうという効果があるらしい。そういう意味で言えば、急に殴りかかるという行為には、握手や抱擁以上の、人間同士を結びつける力があるのかもしれない。

 

映画や漫画の中で、深い関わり合いを持っていく過程で、最も強い力を持っているのが、この、暴力だと思う。愛よりも強い結びつきの力。復讐を果たすために、命を投げ出すキャラクター、全くありがちだと思う。その人間のために命を投げ出す。そんなとんでもない行為の種を、易々と育ててしまう。それほどに、暴力の力は大きい。

 

と、ここまで書いてきたんですが、まだ書きたいテーマがあって、長くなりそうなので、一度切ることにします。まとめは、別の記事で。         2019.07.09