1024号室

納得のいく首輪を探しています

蚊と博打

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もう蚊が出た…。

 

夏の斥候がやってきた。ちょっと早くないか?もう少し、過ごしやすい春でいて欲しい。こういう、穏やかな季節の中で暮らしていると忘れてしまうけど、必ず夏は毎年やってくるもんだ。汗と電気代の夏はやってくるもんだ。ああ、名残惜しや、風の春。正直、大した感性も経済力も持っていない僕には、春を感じとる手段はそんなにないけど、それでも春は好きだ。

 

んで、忌々しい蚊の話だけど、今僕の部屋に迷い込んだ蚊に向けて、撃退グッズの電源を入れる。噴霧器のスイッチを入れてベッドに寝そべる。さあ、これでひと安心だ。しばらくして、あたりを見渡すと、化学毒にやられて乱雑な飛び方をしている一匹の蚊を見つけた。散々僕を刺しまくって、大量の血を貯留させた腹が見える。これは行けそうだと思って、素早く近づいてパンッとやる。捕まった。ああ、なんと脆弱なんだ。こんなちっぽけで何の価値も、戦略もない奴に、僕は惑わされていたのか。忌々しい。

 

そこで、少し考えてみる。蚊の価値とは一体なんだろう。人間にとっては、不快なだけだ。余暇に茶々を入れる。伝染病をばらまく。まあ、彼らだって、食物連鎖の一端を、立派に担っているのだろうし、人間にとって不快だから価値がないというのは、ただの傲慢なのかも

しれない。ただ、それにしても、あまりに一個の生命として、粗末すぎやしないか。命は平等なのだと人は言う。なのに、人間とこの蚊の差は一体なんだ。一瞬の寿命。あるかないかの体重。彼らはなぜ存在しているのか。ただ、数が多いだけだ。

 

と、考えていたところで、ある話を思い出した。どこで耳にしたかは忘れたけど、蚊は滅ぼせないという要点の話を聞いた気がする。既に世界中に繁茂している蚊という生物は、人間の実力を以ってしても、殲滅することはできないらしい。その話の真偽は置いておくとしても、ある程度、腑に落ちる話だと思う。再生産力の高さ、適応力、そして、数。確かに、最後の一匹まで消し去るのは無理そうだ。そう考えると、この手のひらで無残な姿を晒している一匹に対する見方が変わってくる。

 

蚊の戦略

蚊は、脆弱では無い。

 

蚊は、その種の保存戦略に、数を採用している。個としては、弱く儚い。ただ、種としては、はるかに巨大で、強かで、極大の不滅力を持っている。生物の目的が、種の保存だけに絞られるなら、蚊ほど強力な生物は中々いない。この、か弱く、寿命も短い簡素な生命体の存在の根拠は、一個体ではなく、種全体にあるらしい。僕が今ここで、蚊を一匹潰したところで、それは蚊という地球をまたぐ巨大な生命体の、ごくごく一部を損傷させたにすぎず、結局蚊にとって、かすり傷にもならないということだ。蚊は、大量のコピーを作ることを選んだ。無数のバックアップを取ったと言ってもいい。

 

蚊は、生きて行く。不条理や不平等などものともせず。己を失った彼らには、彼と我に決定的な差がない。蚊は乗り越えてきた。戦国時代も平成も。この令和も、難なく、乗り越えていく。種が滅びるまで前進を続ける。不幸な個体を踏み越えて。数とはそういうことだ。こちらが死んでも、あちらが生き残る。生存の博打性を嫌い、生きるという試行回数を数限りなく増やしている。

 

そう、蚊は、個体においてのみ、脆弱だ。

嫌だ

蚊は、嫌がらない。生まれた場所にも、運命にも、不幸にも、何一つ抵抗しない。強烈な全体主義の犠牲者であることを厭わない。「なぜ」が無い。「嫌だ」がない。

 

僕は、人間だ。僕には「嫌だ」がある。今まで、この人間特有の感情をとことん無視してきた。くだらない、役に立たない、幼いとさえ、思ってきた。でも、どうやらそれは違うようだ。この「嫌だ」こそ、人間を人間足らしめている素質であって、虫や植物ではない証明になるんだ。

 

種としても、個としても、存続尊重していこう。これは、もしかしたらとてつもなく不自然なことなのかもしれない。それでも、人間は、それを獲得しようともがいてきた。人類史は、そういうものだと、僕は思っている。

 

個人と我慢

不幸にあった個人というのは、どうするべきなのか。他は助かったと喜ぶべきか。蚊のように。

 

僕はただ、もがくことにしよう。人間であるために。

 

個人とは、何をするべきか。公人でもなく、特定の政党に傾倒しているわけでもなく、反社会組織の一員でもない。ましてや、百万の視線を浴びるステージに上がるわけでもない、ただの一般人の生き方はなんなのか。

 

僕は、抗うということだと思う。屈服させようとする、隷属させようとする、己を否定させようとするあらゆるものに、抗うことだと思う。

 

人間は個別のものだ。一人一人が独自の個体だ。揃っている必要なんてどこにもない。同じところに帰ろうとする。自分だけに起こったことを、なかったことにする。そんなことはできない。起こったことは取り消せない。

 

人間には、変化する能力がある。環境に対する変形能力もある。僕のような一般人こそ、自分の不幸を見極め、対処していくべきなんだ。不幸への視力。これが、個人の戦いだ。無視したってなくなりはしない。目を閉じたところで、それはそこにある。

 

それに合わせて、我慢の話。我慢をするというのは、受け入れるということだ。ここを僕は今まで勘違いしていた。我慢をする人は、必ず、一つの期待を持って、我慢を試みる。それは、過ぎ去るということだ。過ぎ去ることを期待して、我慢をしている。でも、本当はちがう。

 

我慢をするということは、文句を言わず、引き受けるということだ。それを、承諾するということだ。過ぎ去りなんかしない。むしろ、固定してしまう。

 

だから、「嫌だ」だ。

 

この、「嫌だ」の軽視、抑圧というのは、そこら中で行われているけど、しわ寄せを喰らい続ける弱者の「嫌だ」の中にこそ、打ち倒すべき宿敵が潜んでいるのかもしれない。

 

運の悪い奴は滅ぶんだ。でも、俺たちは生き残る。それじゃあ、蚊と一緒じゃないか。僕は人間として生きる。ハズレを引いた人間にだって、やり方はあるんだ。

                                   2019.6.20