1024号室

納得のいく首輪を探しています

夢遊病

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今まで僕は、たくさんのことを夢見てきた。つまらない現実に追い回されながら、逃げるように夢を追ってきた。

 

夢は、追えば逃げて行った。掴もうとすれば、煙のように消えた。一体どこに行ったんだろう。とんと見当がつかない。カーテンの裏、ポケットの中、古いノートの始めのページ。どこにもない。気づいたら無くなっていた。

 

夢とはなんだろう。夢が叶うとは、夢が叶わないとは、なんだろう。

 

橋の点検をする作業員、赤ん坊を抱いた母親、そして、文章を書いている僕。

 

夢とはかけ離れた、いつもと変わらない現実が、いつもと同じ場所にある。

 

僕は、継続ができない。つまり、努力力が無い。小さい頃からずっとそうだった。サッカー、空手、楽器、十代の頃に始めて今になっても続いているものは何もない。それぞれの場所で、夢を持っていた。

 

努力が足りなかったから、夢は叶わなかったのか。夢へ向けた努力のハシゴの長さが足りなかった。だから、夢が叶わなかったのか。

 

多分、そうじゃない。ハシゴは、足りすぎるほどに足りていた。

 

人間の夢は叶っている。常に、叶い続けている。というのも、自分を鑑みるに、夢というのは、理想像というのは、よくよく考えてみると、大抵、ただの現状の裏返しだったりする。

 

今の生活が認められない。こんなの嫌だ。だから、〜になりたい。〜でありたい。今が要らないから、これが欲しい。今日を愛せないから、明日に行きたい。今を捨てるための口実として、夢を見ている。現実から目をそらすための手段として、夢の方を見つめている。

 

そうやって自分を騙しながら、夢を追う。夢を追い回して、疲れ果てる。そして、自分の部屋で落ち着いてみる。

 

そこで、夢が叶う。

 

つまり、おそらく、殆どの人にとって、心の底で願っている、当人も気がつかない夢というのは、安全であることだ。波風が立たず、当たり障りの無い、静寂を求めているだけだ。

 

これは、叶う。毎日毎日。

 

日が暮れて、喧騒を切り抜けて、部屋に入り、ベッドに寝転んだら、そこは、夢にまで見た桃源郷だ。そこにたどり着きたかったんだ。

 

夢は叶っている。だから、努力の必要がないと、深層が判断している。だから、努力ができない。なぜなら、その必要がないから。

 

スタートを切れない人間なんていない。それでもそこに立ち止まって動き出せないのは、ゴールに着いてしまったからだ。だから、もうどこにも行かなくていい。何も、追わなくていい。

 

これで、夢があるのに努力が出来ないという状況が出来上がる。追っていたつもりで、追いかけられていたんだ。現実に。

 

でも、安全は本当の夢じゃない。恐怖に、臆病に、蝕まれた夢だ。沢山の人が、多種多様な夢を持っている。それを、嘘とは僕は言わない。ただ、その疾走は、本当に追跡なんだろうか。

 

本当に夢を叶えたいなら、勝手に育ってしまったこのくだらない夢を捨てるべきなんだ。ハンターのつもりが、いつしか獲物になっているかもしれないんだ。

 

もうすぐ夜が来る。億の夢が叶う。

 

人々の傷に膿んだ夢が、本当の夢を吸って、ため息の中に花開く。

 

刻一刻と、夢は夢であり続ける。

 

僕が本当に欲しかったものは一体なんなんだろう。今日も掴み取った、いや、掴み取らされた安全が、夏も冬も、全ての年月を喰らい尽くすのを、ただ手をこまねいて見ているだけなんだろうか。

 

努力とはなんだろう。

 

自分の本当に願った夢を、この、底にこびりついた欺瞞の夢から、掘り起こすことだ。

 

全ての夢は叶っている。そんなことを思って、ベランダから見慣れた風景を眺めてみる。本当に望まれて、本当に叶えられた夢も、どこかにはあるはずだ。

 

 

 

 

そうだ。

 

叶えられた夢だ。

 

整備を受けたあの大橋も、母親に抱かれていたあの赤ん坊も、もしかすると、ここでうなだれている僕でさえも、誰かの叶えた夢なのかもしれない。      2019.08.21 

ハラスメントと羽交い絞め

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ここ何年かで、ハラスメントという言葉がよく使われている。セクハラパワハラに始まり、アルハラアカハラモラハラ…。聞いたことさえないようなものも、どんどん開発されている。

 

中には、ハラスメントを量産している、わざわざ、存在しない問題を作り出している、と語る人もいる。果たして、今まで良しとされていたことがしてはいけないことになったのか、本来してはいけないことが、不正に行われていたのかは分からない。

 

ただ自分としては、これは、一過性の問題ではないし、誰もが無関係なことではないと思う。これは、とても重要なトピックだと思い、書いてみることにしました。

 

ということで、ハラスメントの記事です。

ハラスメント問題

まず、ハラスメントとはなにか。

 

辞書を引くと

ハラスメント(造語)何らかの方法で当人に苦痛を与えるようなことをすること。また、その苦痛。                     新明解国語辞典 第七版

とある。ちょっと抽象的すぎるな…。

 

自分なりに注釈を加えると、逆らえない立場、状況、関係にあるものに対する、一方的なコミュニケーション。というところかな。

 

そして、このハラスメント問題の本質。なにが、問題になっているか。なにが原因で、誰が困っているのか。もちろん、被害者の苦痛だ。あらゆる意味における「弱者」への、「強者」の暴力が問題になっている。

 

なら、暴力=苦痛なのか。人は言う。弱者への暴力をやめろ。女性への、子供への、従業員への、加虐をやめろと言う。でも、僕はそうは思わない。というより、その認識が、この問題の本質をついているとは思わない。

 

ハラスメントを辞めろ、では、解決策にはならない。

暴力≠苦痛

被害者の苦痛に、もちろん暴力は深く関係している。暴力がなければ、もちろん、何の問題もなかった。でも、苦痛の内訳には、間違いなく別の何かがある。

 

ハラスメントを受けて、生活を、キャリアを破壊された人々の話を、ネット記事で読んだ。ブログで読んだ。なぜ、彼ら彼女らは、こんなにも苦しむのか。

 

それは、反撃が出来なかったからだ。

 

実は、ハラスメント被害者の苦痛の大部分は、反撃が出来なかったことから生まれるのだと思う。

 

明らかに理不尽なことをされたとしても、反論できない。反撃もできない。だから、無力感、不能感、後悔、自分への怒りに苛まれることになる。

 

もし、なにか不快だと思うこと、理不尽だと感じることに直面した時に、きっぱりと反論、反撃が出来ていたなら、ここまでの、人生を蝕むような苦痛には育たなかったんじゃないかと思う。

 

弱者(だとされている人)への暴力の、最も悲惨な点は、そこにあると思う。反撃を許さないことこそ、本当の暴力だ。

羽交い締め

ではなぜ、反撃が出来なかったか。怖かったからか、そんな力が無かったからか。違う。世間が許さないからだ。

 

子供は親に逆らってはいけない。女性は声を荒げてはいけない。ましてや、暴力なんて振るってはいけない。従業員は、客に従わなくてはならない。部下は、上司に謙っていなければならない。

 

誰もが、そんな認識を知らず知らずのうちに持ってしまっている。知らないうちに、弱者(だとされている人々)に、圧力をかけてしまっている。

 

してはならない。こうでなくてはならない。こんなことはあってはならない。そんな世間の呪縛で、ハラスメント被害者は、加害者と世間の間で、板挟みになる。

 

言わば、世間によって、羽交い締めにされているということになる。強者(だとされている人々)は、無抵抗をいいことに、やりたい放題になる。

 

この羽交い締めが解かれない限り、この手の暴力は、酷くなる一方だと思う。

 

重要なのは、暴力を無くすことではなく、無抵抗を強いることを止める、ということだ。

 

ハラスメント被害者は、ハラスメントを受けた場合、同時に二つの戦いをすることになるということ。片方は強者(だとされている人)、もう片方は世間。

 

世間と戦う。つまり、最強の敵との戦い。こんなものに勝てる人間は存在しない。全員負ける。今まで誰も勝てなかった。これからもそうだ。個人が永遠に勝てない存在。それが世間だ。

 

そして、世間とは僕だ。あなただ。

 

一人一人が、羽交い締めの腕力に参加していることを、自覚するべきだ。

 

ハラスメント問題は、単に一対一の問題ではない。

強者と弱者

強者と弱者、この記事では、この二語の後に、括弧をつけてきた。そこには、自分なりの思いがあるからだ。

 

強いとは、どういうことなのか。弱いとは、どういうことなのか。果たして、世間にケツをもたせて、無抵抗のものに、振る舞いたいように振る舞うのが、強者と言えるんだろうか。

 

指摘にも、意見にも、反論にも、耐えることができない。そんなグラグラの自信の持ち主が、強者と言えるのだろうか。本当に強者なら、反論を許すべきだ。反撃を、許すべきだ。

 

封じ込めは、共倒れの鎖だ。上のものは、改善の機会を失うし、下のものは無力感に悩む。全員が、等しく堕落していく。

 

世間の圧力。一見無関係に思える立場の人間にこそ、この問題の解決の糸口が潜んでいるような気がしてならない。

 

僕は、ハラスメントの被害者になったことがある。多分、知らないうちに、加害者になったこともあるはず。弱いということ、強いということ、すべて、自分の人生を覆ってきたテーマだ。だから、このトピックに関して、ちょっと冷静でいられないところがある。

 

弱いってなんだ。

 

強いってなんだ。

 

大地と建築物の関係を知っていますか。

 

乗っかる方はいつも情けないんだ。

 

乗っかられる方は、いつもたくましいんだ。              2019.08.13

 

カメと遭難

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昔、小学校低学年の頃に、亀飼っていたことがある。近所のペットショップの水槽で売られていた、ミドリガメだ。当時の所持金で買えるような値段だったと思う。

 

生まれて初めて扱う命だったし、ゲームや友達との遊びとはまた違う喜びを感じて、毎日毎日、触れ合っていたのを覚えている。

 

ただ、やがて日が経つと、生来のテキトーさ加減や飽きっぽさが顔を出してきて、結局逃してしまうことになったから、苦い思い出ではあるけど、生物というものの様子や、生活に触れることができた、生の経験だったと思っている。

 

さて、僕はこの一連の出来事を通じて、何か、無意識的に、亀に対してある印象を抱いていた。十数年経った今なら、それを言葉にできると踏んで、記事にしてみようと思った。

 

やってみよう。

ウサギと亀

まず、亀は鈍い生き物だ。思い甲羅を持っているが故、敏捷さを失ってしまっている。

 

亀の鈍足を使った寓話もある。ウサギとの徒競走をして、ウサギ圧勝の下馬評を覆して、その勤勉さを武器に勝利を飾る。ノロさによって、ウサギの驕りを煽って、勝利にこぎつける。

 

教訓としては、能力への過信は、結局身を滅ぼすことになりかねませんよ。たとえ、能力が低くても、着実に、歩を進めていけば、いつかは辿り着くことができますよ。というところだろう。なるほど。とても勉強になった。

 

ただ、一つ思うことがある。言うまでもなく、ウサギと亀は、別種の生き物だ。それぞれの戦略に応じて、別個の進化を遂げてきた、全く別の生物だ。棲んでいる場所が違う。向き合うべき脅威も、立ち向かい方も違う。

 

それを、人間の尺度に無理やり引き上げて、比べているようなところがある。それでは、教訓をつかむことができても、本質をつかむことが出来ない。

亀の走法

実は、亀は、この上なく素早い生物だ。

 

亀は、甲羅を持っている。速く走ることが出来ない。亀は、鈍足故に、外敵に、すぐに追いつかれる。その代わり、甲羅の中に、手足頭尻尾を引っ込めて、生存を図る。この動作は、とことん素早い。

 

つまり、亀という生き物は、最小限の動きで、体力もほとんど使わず、敵から逃げおおせることができる。

 

懸命に駆け回って、四方八方逃げまくり、外敵が疲れて諦めるのを待つという、ウサギのような、愚鈍なことはしない。

 

生存の最短ルートを、最速で駆け抜けるのが、亀という生物だ。ただ、甲羅の中に、引き篭もるだけでいい。

 

そう、亀は、生存レースにはそもそも負けることがない。レースをとことんまで短くして、ゴール前に常に陣取り、いつでも、どこでも、ゴールテープを切れるのが、亀だ。

 

亀は素早い。目指すべきゴールを所有しているから。

甲羅=安全?現在地=目的地?

つまり、亀の素早さというのは、危険地帯と安全地帯の往復スピードが速いということだ。危険への深い理解が甲羅を使った。逃げ切れないのなら、居直ってやる。甲羅の中に。俺は、シェルターを保有しているんだ。

 

危険への理解と、進歩への鈍さというのは、間接的であるにしろ、繋がっているらしい。

 

人間の、危険への敏感さは、ちょっと眼を見張るものがある。危険を克服するために、たくさんのものを取り揃えてきた。

 

病に対する医療、不平に対する宗教、飢餓に対する農業、存在に対する文化、凝固に対する芸術。

 

長い時間をかけて、人間は、自分自身を、たくさんの人工物(甲羅)で取り囲んできた。本当に安全になった。安全保障という意味では、ある臨界点に達しているような気さえする。

 

ただ、重苦しくなった。鈍くなった。彼方を見ても、此方を見ても、甲羅の中から這い出た、門前払いの手が見える。

 

僕は、生まれながらにして、全てを享受してきた。求めずとも、与えられてきた。作らずとも、全てはそこにあった。生まれた時から、全ては完成していた。

 

空の財布の所有者なら、それを金で満たす欲求が生まれる。生まれた時から、何から何まで取り揃っていた、もしくは、そう思い込まされる時代に生まれたのなら、何を欲しがる理由もなくなる。どこにも行かなくていい。なにも、作らないでいい。現在地の目的地化。甲羅の作用だ。

 

僕の印象で言えば、若者の、政治への無関心への理解の糸口も、そこにある。

 

この、なんとも言えない息苦しさ、閉塞感が、安全の代償だとして、全ての行動を、安全への逃避と解釈してみるなら、亀が甲羅の中に手足を引っ込める時のような、自動化、効率化は、やっぱり疑ってみるべきだ。

 

軽やかに進むことが、むしろ立ち止まっていることを証明しているかもしれないんだ。

 

一生が、ただ長い1日で、僕は、1日たりとも、明日を迎えられないかもしれないんだ。

 

生きていることが、死んでいることかもしれないんだ。

 

このブログを始めたのも、現在地を失うための、一歩目なのかもしれない。

 

知っている道は、知っている場所にしか、僕を連れて行きはしない。

ほころびの時代

あれには、収集が付いている。これにも、決着がついている。

 

冒険の難しい時代に生まれた。オリジナルになりにくい時を生きている。その上、ここには居たくない。それなのに、荷造りをしている暇もない。

 

甲羅を背負ってしまった人間として、この、遅々とした歩みは、仕方がないのかも知れない。

 

ただ、少なくとも、甲羅の中に、目指すべき場所はない。        2019.08.04

鋼の翼 鉄のエラ

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金属の話。ちょっと前に書いたエイリアンの補完記事を書いてみよう。あのエイリアンの表皮の、というか、ギーガーの画風である、金属的な質感、金属をまとった生物、その魅力。

 

なぜ、金属的であることに、こんなにも興味を惹かれるのか。

 

今更だけど、気にしてみると、金属というのは、まあ色んな場所で加工されて生活、文明に融け込んでいる。

 

ガードレール、電線、トタン屋根、シャッター、スプーン、フェンス、銀歯、自転車、信号機、歩道橋。

 

パッと見えるだけで、ものすごい量の金属が、利用され、消費されている。

 

こうやって、見過ごしているもの、気にも止まらないもの、当然だと思っていること、そんなものに、何か自分に足りないもの、見るべきもの、省みてみるべきものが、潜んでいるに違いない。考えてみよう。

人間の変形能力

金属の加工が始まったのは、遥か昔のことらしい。青銅器、鉄器、こういうものは、実用的価値よりも、鑑賞、研究の、文化的価値が付いてしまう程に古い。それぐらい、太古から人間は金属を利用してきた。

 

量の豊富さ、硬さ、見た目、人間の熱い興味を引くには、十分なだけの要素を持っている。たくさんの国で、硬貨にもなっている。

 

ここで気になるのは、人間の加工力、変形能力だ。

 

人間は、あらゆるものを変形させてきた。石、木、生物、植物、山、そしてこの惑星さえも、変形させる能力を持っている。両手と道具で、あるいは顕微鏡と試験管で、ありとあらゆるものの形を組み替えてきた。金属もまた、人間の変形能力の的になった、一つの対象だ。

 

具体的に考えても、抽象的に考えても、ある、2つのものが衝突した場合、より柔らかいものの方が変形することになる。金属は、地盤から取り出され、精製を経て、利器に変わった。人間の変形能力の勝ちだ。金属の方が柔らかかった。

 

僕の思う、金属の最も象徴的な利用というのは、武器・兵器だ。刀、銃、戦車。金属がもたらした人間の暴力の加速は、目眩がするほどのものだ。兵器は恐ろしい。それも、人間の加工力ゆえだ。金属の柔らかさゆえだ。それでも、人体と金属では金属が勝つ。人間が勝ったからだ。

 

金属は、柔らかいが故に、人を、国を、裂いてきたと言える。

 

弾丸が作られる。弾丸は、人体を破壊する。文明を変形させる。

 

全ての弾丸は、金属へと放たれた、人間の変形能力の跳弾だと言える。

金属の抑圧性

金属の利用。檻と囚人、弾丸とこめかみ、錠と奴隷、刀と首。金属が抑圧してきた、人間の意思、理想、夢、文化。それは、大変なものだろうと思う。抑え込み、縛り付ける、文明の、人類の檻。それが、金属というもの。重く硬い性質が、幽閉の道具として、高い効力を持った。

 

前の時代の大戦も、色んな見方が可能だろうけど、僕は、金属の性質が最もよく現れていた出来事だろうと思う。

 

人類が(少なくとも善良な人々の間で)、金属アレルギー(武器・兵器への忌避感情)を発症した今では、戦争未経験者の僕でさえ、強い抗体を持っている。発砲の光、手榴弾の音、ミサイルの熱。どれも、未経験のまま、恐ろしい。

 

なんだか、金属の恐ろしさばかり書いてしまっている…。文明への憎悪がハンパない笑。

 

これではダメだ。なにかを信じ込むために書いているんじゃない。意見を固めるために、書いてるんじゃない。自分の中の幻想を、破壊するために書くんだ。

金属の特質

さて、金属の特質とはなんだろう?金属でなければならないこと。金属以外の物質では、叶わないこと。

 

刃?いや、石器時代から、石のナイフがあった。プラスチックの包丁もある。薄く、鋭くしていくだけなら、他の素材でも、不可能じゃない。

 

壁やガードレールなんかの仕切り?いやいや、煉瓦積みの壁、木造住宅の屋根、色々ある。ベルリンを分断していたのは、石の壁だ。

 

釘やネジなんかの連結具?展延性のない木や石は、繊細な加工は難しいはず…。いや、でも、なくはないな。

 

乗り物…?車…?バス…?いや、作れないことはないか…?

 

スペースシャトル?海底探査機?

 

そうだ!これだ!

鋼の翼 鉄のエラ

つまり、そういうことだ。宇宙空間や、強い水圧のかかる、人間の行くことのできない環境、決して訪れることができなかったはずの場所へ、金属は、その性質によって、人間必死の環境から隔離することによって、未知の場所へ、行くことができないと、天に定められていた場所に、訪れることができる。

 

深海、真空、そんな、生存不能の状況の中に、生存環境を密閉した箱の中に乗って、飛び込んでいける。

 

この、冷たく硬い、抑圧、停止の、象徴であるように思われる物質の本分は、人間を遥か彼方まで連れていく、翼やエラになりうるということだった。拘束具でもあり、解放具でもある。それが、金属というものだ。

 

幽閉、密閉の力によって、人間をどこまでも解放していく。

 

人類の、文明的運動能力を高めたと言ってもいい。

 

冷たく硬い外見の裏に、高い運動性を秘めるこの金属というもの。

 

これが、宇宙生物、高い運動能力を持つエイリアンの表皮になったのは、ある種必然だったのかもしれない。

 

ギーガーが描いた、金属を纏った生き物達。

 

まだまだ、人型クリーチャーの魅力は尽きない。エイリアンのことも、分からない。分からないことばっかりだ。

 

思えば、何も、考えずに生きてきた。考えることによって、進むことによって、自分の精神、思考というものが、いかに手抜きで作られていたか、ということがわかる。

 

それでも、ともかく一つ、魅力に迫れた。自分の力で。

 

やっていくしかない。                       2019.08.02    

エイリアンの魅力

エイリアンって、本当に魅力的だ。もちろん、シガニーウィーバー演ずるリプリーと、H.R.ギーガーデザインのエイリアンが格闘する、あのエイリアンだ。

 

映画自体はもちろん名作で、沢山の評論、解釈がある。とても興味深い。でも、僕にとっての、この映画エイリアンの最大の魅力は、なんといってもエイリアンの造形美だ。

 

まず、あの表皮。金属的で、無毛の、どちらかといえば水棲生物のような体表。何かよくわからない粘液に纏われて、怪しく光る。気味が悪い。目が離せない。また、機能としてはわからないけど、コミュニケーションとしての目玉は、おそらく存在してない。そしてやたら美しい、ミスユニバースのような歯並び。真っ白。開いた口から飛び出してくるミニエイリアン。舌なの?何?

 

そして、全体的に人間に似通った容姿。とても素晴らしい。人のような、でも、人ではない姿。人型クリーチャーの魅力だ。僕は個人的に、人型クリーチャーをこよなく愛している。様々なゲーム、映画、絵画で描かれてきた、人の容姿をしたクリーチャー。似て異なる亜人の魅力。ミノタウルス、貞子(?)、エイリアン。

 

今回はその、亜人、異人の魅力というものを、ギーガーの作った、あの美しいエイリアンに基づいて、書いてみたい。

人型クリーチャー

導入でも書いたけど、人型クリーチャーの魅力というのは、とりもなおさず、人に似ているということ。人のような容姿をしながら、実態は全く人と異なる。人のようで、人でない。顔、手足、腹、背、腰、ともかく人間的。形や色は違えど、類型的には、人体にとても近い。にも関わらず、気味が悪い。怖い。一体なぜ、人間に似ているということが、親近感ではなく、むしろ異物感を催すのか。

 

なぜ、近いということが、こんなにも心のザワつきを生むのか。普通に考えれば、遠くかけ離れていた(明確に異質なものの)方が、気味が悪いはず。でも、実際には、人間的なものの方が、気味が悪い。虫が、動物が、人間的振る舞いをしているのは、どこか気味が悪い。

 

この、気味が悪いという感覚の裏には、僕たち人間の、やや複雑な生理が関係しているらしい。

 

まず、遠いということは、異質だということは、どういうことを表すか。

 

僕の家から、富士山は見えない。あまりにも距離があって、肉眼では確認することができない。ただ、遠いということを知っている。それにひきかえ、うちの窓から見える山は、肉眼で捉えられるほど近い。これは、どちらが遠いのか。

 

僕は、今この目で見ている山の方が遠いと思う。富士山は遠い。確かにそうだ。でもそれは、頭の中で理解していることだ。実際の距離は遠いけど、それは理屈で認識している距離だ。ただ、今見ている山は、実際の自分の感覚に頼って、遠い。目で見える。距離を、体で感じる。実際の距離がどうであれ、現実に僕にとっての遠い山は、この家から見える山だ。

 

 

 

つまり、遠いということは、視界に捉えているギリギリの距離にあるものが一番遠い、ということが言えると思う。

 

あまりに遠いと、遠いということさえわからない。目で見えるほどに近い。だからこそ、最も遠い。

 

これを、エイリアンはじめ、人型クリーチャーに当てはめてみると、彼らは人型の容姿を借りたことで、僕たちの視界に入ってきた。そして、ああ、遠いのだ。ということが分かったということになる。彼らは、人間に向かって近づいてきたが故に、あれほどまで遠のいていった。

 

遠いということが認識できる距離にまで、近づいてきた。つまり、人型クリーチャーに対する、このモヤモヤとしたなんとも言い難い感情には、同質範囲内の異質、異質領域にあるものへの共感、というものが作用していると思う。エイリアンがあれほどまでに気味が悪く、かつ魅力的なのは、僕たち人間とは、決して分かり合えないほど近いからだ。触れ合いそうなほど遠いからだ。

密室の異邦人

パニック映画、ホラー映画の設定において、非常に重要なものの一つとして、決して逃れられない、というものがある。霊体に付きまとわれたり、眠るたびに夢に出てきたり、アマゾンの秘境だったり、容易に抜け出すことが出来ないということが、こういった恐怖や混乱を煽るタイプの映画の成立の、必要条件になっている。

 

絶望や恐怖、焦りなんかが持続されるには、子供の見る悪夢のような、密閉性が必要になる。

 

エイリアンなら、キャッチコピーにある通り、「あなたの声は、誰にも届かない。」宇宙空間を漂う宇宙船が、その密閉性を作り出している。決して逃げられず、否応無くクリーチャーと対峙することになる。そういう意味において、宇宙船というのは、とても優れた設定だと思う。これ以上の密室はない。その中で、エイリアン(異邦人)は躍動する。その運動能力を、恐ろしさを、存分に発揮する。

 

追われる恐怖ではなく、追い詰められる恐怖。

 

密室ということで言えば、このエイリアンシリーズのテーマは、禁忌への挑戦だ。人工生命、生贄、不老不死、生物兵器。人類の科学力の発達が、人間を、より難しい不可能へと向かわせる。その全能の手でパンドラの箱を開けようとして、宇宙船自体が、災いの箱の一つになってしまう。

 

閉じられた空間(逃げるという選択肢が奪われた状態)で、人間が取りうる行動は何か。狂う、戦う、諦める。つまり、順応か、克服か、拒否か。うん、狂う=順応だ。

 

その中で大概の主人公が、戦うことを選ぶ。勇気、知恵、人間的なものを見せてくれる。この言葉はあんまり好きじゃないけど、ホラーやパニック映画でさえ、精神活動のメタファーになっている。

CG

今回の記事を書くにあたって、殆どのエイリアンシリーズを見てみたけど、やっぱり1.2あたりのCGは、今の目からみると結構チャチだ笑

 

もちろん、当時からしてみるとこれは素晴らしい技術水準で、観客もこぞってスクリーンに釘付けになっていたんだろうな。でも、ただ目が肥えているからというだけの理由で、このCGが、僕に感動をもたらさないわけじゃないと思う。僕はもう、どんな素晴らしいハイクオリティの映像にも、感動ができないと思う。

 

 

 

この当時のCGというのは、箱の中の画面に、たかがスクリーンに、これだけ現実に近いものが映し出されているという時点で、すでに素晴らしかったんだろう。

 

今の恐るべき現実コピーでは得られない感動だったろう。あまりに現実に近づきすぎて、差異に目がいってしまう。技術の発達によって、どれだけ近いかじゃなく、どれだけ遠いになってしまっているとおもう。

 

ものごとは、完璧に近づくにつれて、粗探しになる。

 

と、ここでまとめたいと思ったんですが、よく見直してみると、エイリアン自体の魅力は、あまり書けてない…。

 

ただ、この記事を作成してみて、金属的な肌、密室の異邦人、見られない目玉、いくつか面白そうな種子を手に入れたので、それはそれで改めて、エイリアンの魅力の補完記事として、書いてみたいと思います。

 

閲覧、ありがとうございました。                 2019.07.23

虚無

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虚無、という言葉がある。

 

今まで、なんの主張も持たず、化粧を塗りこめたのっぺらぼうとして生きてきたから、この言葉には、とても親しみを感じる。別に、何をしたいわけでもない、別に、取り立てて欲しいものもない。別に、なりたいものがあるわけでもない。別に、別に、別に。

 

世界も僕も、虚ろで、無い。僕の人生にぴったりな言葉だ。空虚で、不感で、透明だ。

 

ただ、ひとつ、この虚無という言葉に対して、兼ねてから違和感を持っていた。虚ろで、無い。無い、ということは、空っぽだということだ。不足していて、満たされていないということ。

 

辞書を引いてみると

 

【虚無】㊀とらわれる何ものも無いこと。空虚。㊁人生・世の中のむなしさを意識すること。ニヒル。                   新明解国語辞典、第七版

とある。

 

うん、やっぱり、何か違和感がある。僕は、からっぽ、空、無、ということに、妙な魅力を感じている。それはもっと、希望的で、洗練された何かを感じている。

 

本当に、この虚無という表現と、実際の状況とに、整合性があるのかどうか、考えてみた。

 

すると、僕の違和感は正しい感覚だということがわかった。例えから入ってみる。

 

まず、赤ちゃんはからっぽだ。なんの知識もなければ、思想も、主張もない。定義で言えば、彼らは虚無に該当することになる。とらわれるものは何もない。からっぽだ。では、実際にはどうなのか。僕は、ニヒリズムに陥っている赤ん坊なんて、見たことがない。斜に構え、開き直っている赤ん坊なんて、一度も見たことがない。

 

彼らは、好奇心の塊だ。何にでも触れてみる。なんでも口に入れてみる。目は輝いている。忙しなく動き回る。活発で、健康だ。からっぽであるにもかかわらず。

 

ここで、自分を省みてみる。何物にも興味がない。気力がない。行動がない。ただ習慣の中を歩き回り、やがて疲れ果てて同じ場所で眠りにつく。僕は、彼ら赤ん坊と違って、拙いとはいえ、知識がある。物事を知っている。分かっている。理解している。にもかかわらず、僕の方が虚無に相応しい。明らかにからっぽであるはずの彼らの方が、虚無とは違った実態の中にいる。

 

これは、一体どうしたことか。なぜ、こんなことになっているのか。

 

そこで、思い出してみる。自分を始め、虚無な人々のこと。その行動や言動、様子。

 

ひとつ明らかなことは、虚無に陥っている人間は、よく似ているということ。雰囲気、言動、目つき、なんだかとっても似た空気感が出ている。よく冷たく笑う。見下したように、年季の入ったニヤニヤを、懸命な者、珍しい者、違った者へと向ける。変化を嫌う。失敗を嫌う。恥をかくことを嫌う。目立つことを嫌う。本当によく似ている。個性的なものは何も無い。ということは、自分由来のものを無くしてしまっているということだ。同じ顔をして、一列に立ち止まっている。

 

つまりは、そういうことかもしれないんだ。虚無とは、満タンなんだ。完成なんだ。集大成なんだ。

 

虚無とは、たどり着くものなんだ。世にあふれている、安くて、舌だけは騙せて、容易に大人になった気になれる。そんな、他人の作った粗製の思想を、飲んで飲んで、飲んで飲んで、はち切れんばかりの脂肪の塊になって、そこに立ち止まっているということなんだ。手も足も、頭も、心さえも、他人で構成された変な生物、それが、ニヒリストなんだ。飢えが、飢えだけが、人間を立ち止まらせるものだとばかり思っていた。足りないのではなく多すぎるんだ。飢えているのではなく飽食しているんだ。スタートできないんじゃなく、ゴールに辿り着いてしまっているんだ。

 

虚無は、感情じゃなく、ひとつの将来なんだ。

 

この、虚ろに昼を眺める目は、夜に開きっぱなしの瞼は、本当に僕のものだったか。僕が入る隙間もない程、他人で埋まっているだけじゃなかったか。こんな時代に生きる人間が、動き出すために必要なのは、摂取じゃなく排出だったんだ。まず、嘔吐から始めてみるべきだ。食い尽くしてしまった、あの健康な飢えを、取り戻すために。

                                  2019.07.14

ディストラクションベイビーズ 暴力編

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出典:映画.com

今回はちょっと、映画の感想でも書いてみようと思います。

 

さしあたって、予め書いておきたいことが2つ。まず、これは宣伝ではありません。うまく肝を隠しながら、興味を引かせるような技術を持っていません。なので、ネタバレがあると思います。ご了承ください。

 

もう一つには、僕は評論家ではありません。また、映画に詳しくもありません。だから、自分の心で感じたこと、興味を引かれた部分を、断片的に書いていくに留まります。

 

ただ、これだけ贅沢に時間を過ごしたから、単なる消費で済ませたくなかったということなんです。そもそも、ネタバレで瓦解するような魅力の映画とも思えない。

 

そんなところで、よろしくお願いします。

 

ディストラクションベイビーズ

まず、この映画はキャラクター映画です。世界観じゃない。最後に物語のどんでん返しがあるわけでも、トラックが仕込まれているわけでもない。主人公の強烈な個性が、最初から最後まで、ノンストップで物語を貫いている。そういう映画だ。主人公泰良を語らないと、この映画は語れない。

 

そして暴力。この映画における、誰の目にも明らかな主要テーマ。主人公は、全編に渡って、人を殴り続ける。相手、場所、立場、そんなことには少しも気を止めず、暴力を行使し続ける。冒頭から、もう喧嘩のシーンだ。多人数を相手に立ち向かっていく。相手はバットを持っている。惜しげも無く使う。その喧嘩は、「大人」の登場でうやむやになってしまう。ただ、そこからはもう、一人になってからは、延々と喧嘩だ。バンドマン、チンピラ、高校生。

 

僕は映画を見るときに、主人公をまず理解しようとする。いい映画は、イントロダクションが素晴らしい。巧みに情報を盛り込んで、鑑賞の上での土台作りの手助けをしてくれる。ゴッドファーザーpart1がなぜ娘の結婚式(多くの人間が集まり、それぞれが反射しあう)から始まるのかって話だ。でも、この映画は、最後まで主人公を理解することができない。何も明かしてくれない。いや、むしろ最初から全てをさらけ出している。相手を探して、見つける。喧嘩を吹っかける。他に、何に対しても興味を示さない。他に何もない。

 

主人公の目的というのは、映画において物語の軸になりうるだけの力を持っている。主人公が目的に向かって行く姿の中に、僕は、感動だとか、怒りだとか、辟易だとか、いろんなものを感じる。そういう意味において、この映画の主人公泰良の目的は、ただの喧嘩だ。何かあるかと見ていても、他に何も見出せない。そこで、この主人公の目的というものを、考察してみる。外見上は、喧嘩を求めているとしても、実際に何を欲しがっているのか、喧嘩に何を見出しているのかは、別にあるはず。

泰良の目的

僕は、彼は、限界を求めているのだと思う。

 

彼は、喧嘩をして、相手に勝とうとする。打倒して、屈服させて、踏破しようとする。パッと見では、自由だとか、スリルだとか、そんな若い欲望を持っているように見える。破滅的で、刹那的。分かりやすく考えればそうだ。

 

ただ、彼がこれだけ執拗に素手で、単独で、強そうな人間を選ぶ様子を見ると、彼が本当に出会いたかったものというのは、壁ではないかと思えてくる。彼は、超えることのできない壁に出会い、不自由へと叩きつけられることを求めた。求めたのは、自由じゃない。変な書き方をするけど、僕は、自由は人間を自由にするものではないと思う。

 

例えば、ひとりの人間が、何者にも縛られない自由を得たとして、本当に何事からも解放されたとして、そんな、手の施しようのない自由というものは、その人間を立ちつくさせるだけじゃないかと思う。

 

自由とは、何にも規定されないという事。何物にも、縛られないという事。つまり、限界が、形を、存在を作る。

 

壁無くして、一体どんな腕力があるだろう。陸無くして、どんな脚力があるだろう。ひとりの相手という限界無くして、どんな色の恋があるだろう。

 

僕はそんな風に思う。

 

彼が喧嘩に誘惑されてやまないのは、陸の無い浮遊感に、壁のない広漠さに、耐えられなかったからじゃないか。

 

昨今では、「自由を求めよ」「好きに生きよ」という標語がそこかしこで掲げられている。なるほど、長い間日本人に加えられ続けてきた日本的な抑圧や鬱屈へのカウンターだろうなと思う。その気持ちはよくわかる。共感もできる。そうあるべきだと思う。ただ、この言葉には、少し語弊もある。

 

何者にも縛られず、自由に生きよう、では、言葉足らずだ。

 

実際には、「納得のいく首輪を探せ」というのが正しい。自由が足りないんじゃ無くて、首輪を間違えただけだ。

 

首輪が嫌なんじゃない。その首輪が嫌なだけだ。

 

泰良について言うと、彼は基本的に、成人男性しか相手にしない。少しでも骨太の、かつ向かってきそうな相手を選ぶ。つまり、壁となりうるものを選ぶ。高校生とも喧嘩していた。ただ、明らかに辟易している。ギリギリ、選定条件を満たしたと言うところなのかな。三人だしね。

 

彼の信頼

彼は、喧嘩なんてせず、まともに生きている人間よりも、よほど社会を、人を信頼している。攻撃というのは、ある種の信頼と言える。これぐらいならやっても大丈夫だろ?これくらいで破壊されるほど脆くなんてないだろ?ということ。少なくとも、激情に駆られていない(目的が破壊でない)限り、攻撃というのは、確認作業のようなものだ。例えば、いたずらっ子なんてそうだ。親のキャパシティー、タフネスの確認をしている。

 

でも、平和主義者はそうじゃない。彼らが見ているのは、憎んでいるのは、人間の残虐さじゃない。暴力の悲惨さじゃない。人間の脆弱さだ。彼らが本当に絶望を感じているのは、暴力ではなく、人間の耐久性だ。

 

非暴力を謳ったガンジーの思想の底に、人間というものへの徹底した不信感がなかったとは言い切れない。互いを尊重し、相互理解をしていこうという、世界的な動きの裏には、人間は脆いのだ、という、不都合な事実の発覚がある。

 

多種多様な暴力

至る所で振るわれる暴力自体に関して言えば、物語後半で、なし崩し的にチームを組むことになった三人(泰良、ナナ、ゆうや)は、三者三様の暴力を見せてくれた。

 

泰良は、先に書いた通り、暴力自体に魅力を見出している。暴力自体が目的の暴力、目的は楽しむこと。何か別のものの為ではない。それに伴う結果や波及には、全く意を介さない。つまり、現在のための暴力。「快楽の暴力」

 

悪徳プロモーターゆうや。彼もまた、理不尽な暴力を振るう。快楽の暴力もあった。ただ、彼は別の暴力も使った。警察に連絡をしようとした男性、助けを呼ぶために、携帯電話を取ろうとしたナナ、この二人への暴力は、どちらかというと脅しに近い。不利益な未来を妨げるための暴力。つまり、未来のための暴力。「予防の暴力」

 

ナナ。彼女は、意図せず、ゆうやが殴り倒した男性を轢いてしまう。息絶えたと思い込み、トランクに押し込めようとする。その最中、突然男性が覚醒する。ナナは驚き、トドメを刺す。この時の感情は、最初見たときにはよく分からなかった。ただ、こう考えれば合点が行く。これは、もみ消しだ。口封じ、帳消し。そんな意味合いの暴力だ。つまり、過去のために、暴力を振るった。「帳消しの暴力」

 

快楽の暴力、予防の暴力、帳消しの暴力。どうやら、暴力にも、用法があるらしい。

 

それともう一つ重要な点。これは、他のバイオレンス映画も合わせてみて考えたことなんだけど、暴力というものは、行為者と対象者を、強制的に、結びつけてしまうという効果があるらしい。そういう意味で言えば、急に殴りかかるという行為には、握手や抱擁以上の、人間同士を結びつける力があるのかもしれない。

 

映画や漫画の中で、深い関わり合いを持っていく過程で、最も強い力を持っているのが、この、暴力だと思う。愛よりも強い結びつきの力。復讐を果たすために、命を投げ出すキャラクター、全くありがちだと思う。その人間のために命を投げ出す。そんなとんでもない行為の種を、易々と育ててしまう。それほどに、暴力の力は大きい。

 

と、ここまで書いてきたんですが、まだ書きたいテーマがあって、長くなりそうなので、一度切ることにします。まとめは、別の記事で。         2019.07.09